読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

今のあなたを見ていない

人間「変わりたい」って思ってもそんなすぐにハイ!変わった!って変われないんだよねってことは、私もそして周りを見てても、改めて実感してる。でも、変わりたいってもがくことが大切だ。変化を恐れないことが、人間を成長させるし、現状で満足しない向上心、それがある限り人は強く楽しく生きていける。

 

私自身、良い方向に変わってるぞ〜〜!ってことは、それこそちょうど一年くらい前に気付いたんだけど、そこからも、もがいて苦しくて諦められなくて、ってことを今日まで繰り返しててやっぱりそれが吐きそうなほど辛くて……っていうのは、この軌跡を見てもらえればなんとなくわかると思います。

私もここに書いてるからこそ忘れないで覚えていられる。過ぎてしまった出来るようになったことは当たり前になっちゃうけど、ここにこうやって自分の弱さを書いてあるからこの当時の自分ダメダメじゃんって、確かめられる。忘れない。そういうチラ裏でいい。自分の人生においてのターニングポイントの色々がここには書いてあると思う。

 

やっぱり、自信が持てなかった。

誰かの特別になれる自信は未だにない。目の前の大好きな人に対して、私じゃなくていいんじゃないか、この人にはもっと他に良い人がいるんじゃないか。だって私のこと選んでくれないから。私はこんなちっぽけな無力な人間だし、目の前の人、一人救えないし、結局はあなたにとってただの他人だし、私が劣ってるとかそういうことを抜きにしても、この人にとっての特別は私ではないのだと絶望しながら過ごしていた。それでも中途半端に関わりをやめられなくて、縋るように関わっていたら「固執や依存してるのはお前の方だ」と言われた。否定したかったけどその通りだと感じた。未だにその言葉が呪いみたいにくっついてる。固執が悪だと言われてから、それでも特別に好かれたいよって続けられる強さは、私にはなかった。

 

その人には大切な人をいれる枠がなくて、それこそ、友達とか恋人とかそういう大切な人をつくるという発想そのものがない。はたから見てて家庭事情とか本人のこととかも含めて、色んな意味で一人で生きていけないように見えるのに、というかそもそも一人で生きていける人間なんて存在しないと思ってるのに、一人で生きていきたがってて。

だからこそ、とりあえず大切な人をいれる枠をつくりたい。友達でも恋人でもなんでもいいから。その枠の中に、できたら入りたいけど、自分は最悪入れなくても良いからって思ってた。

 

私の最近に当てはめると、じゃあ枠ってなんだ?って思ってもいて。それこそ最近友達の彼氏とか彼女とかとすごく仲良くなってしまって、これは友達という枠とは違うけど、人と人の関係性として確かに情は存在していて。これを友達って枠に押し込むのは違うし、押し込める必要もないわけであって。

なのに私は一番大切にしたい人のこと、頑張って友達とか恋人とかそういう枠に無理やり押し込めようとしてて、どちらにもなれなくて押し込めきれなくて苦しんでた。

そもそも、そうやって、枠を作っちゃったらそこに何かを押し込めて埋めない限り、その人は満たされないから、それこそ規定の幸せの押し付けじゃん。結婚したら絶対幸せになれるとか、子どもは必ず産まなきゃならないとか、同性愛は異端だとか、独り身は寂しいとか。

 

「結局、友達とか恋人とかそういうのは結果でしかなくて、ただ寄り添うとか手を引くとかそういうことをしなきゃならないというか、出来るというか、したいと思ってるのは、あいつを好きでいるあなたしかいないんだよ」

そう友達に言われて、私は、あなたのまだ誰も知らない未来を杞憂して怖がってて、今のあなたを見ていないんだ、って思い知らされた。

いつか誰かが、じゃなくて、今のあの人の足りないところを足りないことだと気付いてて、今なんとかしたいと思ってるのは私しかいないのだと。それはなんかもうすごく、ここまでの関わりであいつの周りに人があまりにもいないってことで思い知らされたし、私が諦められないのも、ここまであの人のことを知ってしまったのも、私にとってあいつが運命の人だったってそんな馬鹿なことじゃなくて、私が強く強く想っていたからだ、ということだけだった。

私にあいつに見合う資格はないと思い続けてきたけど、資格なんていらなくて、私がこうやってあいつのことを知っていて気に掛けていて想い続けているこのことが、すでに理由になるのだと。私があいつに関わる今までが、こうやって手を引く理由になるのだと。権利とか資格なんていらない。だって知ってるから。もっと知りたいと思ってるから。それだけで関わることは十分なのだと。

友達が言っていた。「責任感や義務感で動いてるならそれは違うと思うけど、そうじゃなくて好きだからで動くのなら、もう仕方がないんじゃないの」

義務感なんてない。好きだからやってるだけだ。

 

枠とか結果とかあいつの将来の全部とか、なんもわかんなくてそんなの私にもあいつにも神様にも誰にも分からなくて、ただ好きで関わりたいから。それでなんとなく良くない方向に突き進んでるのが見えてるから、私は、やっぱりこっちにきてよって手を引きたいと思った。

友達と歯医者で例えをしてたんだけど、それこそ虫歯になって歯医者に行かなくちゃならない人がいるとする。私は、虫歯だとしても本人が歯医者に行きたくないならそれはもう仕方がないんじゃない?って考え方で、でもそれはダメだって11月ごろに気付いて、そこから「虫歯だから歯医者に行かなきゃダメだよ!!」って色々言ってたんだけど伝わらなかった。そもそも、本人が虫歯ってことに気づいてないとか、そもそも歯医者の場所を知らないってこにようやく気づいた。だから、私がいますべきことは、歯医者に行くように手を引くことなのかな。

何かをダメだっていっても、そもそもの前提がないから伝わらなくて、私も説教がしたいわけじゃないから、そこで喧嘩になって伝わらなくてしんどかった。色々用意して考えて伝えたいって思ってたこと全部ダメダメになって泣いた。違う。そうじゃない。伝えたいけど怒りたいわけじゃない。是正したいわけじゃない。私もあなたも正しくなんてない。正しさなんてどうだっていい。私はね、手を引きたい。あなたの将来とかどうでもいいから、今の私はあなたとわかりあいたい。その結果に枠がついてこなくても。友達や恋人の枠なんていらない。

「ねえ、こうした方が楽なんじゃないの。どうかな」私はなんとなくその道しるべを知っている。皮肉だけどその幸せになれる生き方に気づけたのは、あなたを好きになったからだ。

 

結局、私も怖がって今のあなたに向き合えてなかったのだ。名前なんていらない。区分なんてしなくてもいい。未来なんてなくてもいい。

その辺のめんどくさいこと全部取っ払っても、私は人が好きだから、結局あなたに関わることをやめられないと思うよ。というかやめない。

私じゃないとダメだなんて思えない。でも、私が今あなたに関わり続けたいのは、あなたのことをずっと見て考えてここまで関わってきたからだ。ここまで関わってきたから、私はなんとかしたいと思ってしまった。

「何ができるか」を思い悩むより、『できることをどうやって出し切れるか、活かすか』を考えてみた方が得策な気がします。
できることしかできないし、できないことはできないし。

恩師からもこう言われた。それでいいのだと思った。あなたにとって私は何ができるか、じゃなくて、今できる私をどうやって生かすか、ってことを考えていきたい。

なんでこうならないの、じゃなくて、どうやったら手を引けるのか、優しい手の引き方を考えたい。

あんな絶望的なほど閉鎖的な人に関わって変わってほしいと願う私の勇気は、私が諦めずにあいつに関わってきた今までが全部証明してるよ。自信なんかいらない。あいつのことたくさん知っちゃった私だからそうしたいと思ってるんでしょ。

それだけで、十分だよ。

春休みが死んで春が生まれる。

春休みが死にかけている。

想い出で色付けられるゲームこそ、名作と言えるんじゃないだろうか。 - 人間蘇生だモラトリアム

この記事を書いたのが、春休みが産まれてすぐだったので、丸二ヶ月ちょいの、ながいながい強制力も何もない空っぽの時間の中のくせに、なんかあほみたいに、いろんなことがあった気がする。

大学があって日常が回っている間は、そりゃ仕方なしにも人に会うから、人間関係も多少変わっていくのは仕方がない。だけど、硬直しがちな茫洋とした大学の春休みっていう所謂「人生の春休み」なのに、すごく人が集まって、人を集めて、ずっと人と人の間を回っていた。暇じゃないの?実家に帰らないの?って友達に言われたんだけど何一つ暇じゃなかった。びっくりした。

自分より二つ上の有名私大卒の従姉妹が「大学生の人間関係なんて、所詮うすっぺらくて軽いものだよ」って言ったのを、嘘だったんだな、いや、それは多分、彼女にとっては真実で、自分にとっては、そんなことはないということを身を以て実感した。結局、小中高専門大社会人老後を楽しめるかどうかなんて個人の主観と環境でしかない。人それぞれ違うのは当たり前なのに、大学生への偏見を当時大学生だった従姉妹に投げかけられたことを思い出した。それは彼女の経験則だ。

 

スケジュール帳を眺めて、富士山新潟群馬沖縄と飛び回りめっちゃ旅をした2月と、暇だと思い込んでたのに人間を飛び回っては寝込んでた3月のことを見て、ほんと自由に生きてるなと思い返す。3月には鎌倉と京都にも行った。

積みゲーも積み本も全然片付かなかった。もっと上手く時間を使えば出来たんだろうけど、時間を人間と関わることに割いていた。人間に割いて、そして凹んで寝込んでゲームができなかった。ばかだなあ。

 

やっぱり人間が好きで、改めて人間が好きになった春休みだった。

しんどいことをここに書いたり、いろんな人と話したり、その闇雲で破茶滅茶で我武者羅な自己開示が、結局人の、なにかよくわかんないものを動かし、返ってくるとても素敵で大切な経験をたくさんさせてもらいました。

 

結局、人は言わなきゃわからないのだ。

察することや空気を読む日本人特有の美徳は全然好きじゃなくて、やっぱ話してそれでわかりあおうとした方が早いし誤解も少ないし、後悔もないよ。

人はわかりあえないけど、わかりあおうとする生き物なのだし、わかりあえないからってわかりあおうとすることを放棄してはならないのだと思う。わかりあえた結果なんてどうでもいいし、というか何を以てわかりあえたと判断できる尺度など存在しないから、わかりあおうとする過程や態度に意味が生まれる気がする。

 

傷つきたくない、なんてどうして、傷付かない人生なんて存在するのか?と思う。

傷付くことを恐れて何もしないより、傷付いたあとにその痛みを言い訳にしない生き方を身に付ける方が自分はずっとずっと大切だと感じてる。だって傷付くことなんてすごく理不尽に訪れるのだから。ある日突然、受験に落ちたり、最愛の人が白血病になったり、両親が離婚したり、家が全部津波に流されたり!たくさん!なんでそうなったかって理由より、何ができるかを考えて動いた方が建設的だと思っている。

より速く適切に学べる人、その理由:ほめ方の研究|WIRED.jp

傷付く=失敗の話だけど最近こんな記事も読んで、そうなのかなあとも思った。根性論だけど、やっぱり実験結果としても存在してる。

 

人と分かり合えなくて一度の失敗で諦めてしまってその痛みを言い訳にずっと、トラウマにできてしまう、胸の痛みを抱え続けられる方が、自分はとてつもなく、強いと感じる。

そうしたら、そいつには、お前は強すぎるよって言われた。でもあなたたちには私が強く映るけれど、私はあなたたちが強く見える。

強い方が偉いわけじゃないし、そもそも何を以て強いのかもわからないから、強いとか弱いとかに意味なんてないのだ。

 

自分も極力傷付きたくない人間だったのに、いつからこうなったのか全然覚えてない。でもやらずの後悔より、やってからの後悔の方がましだから、悩んだ時は突っ走ってしまう。

傷付いて失敗してということを春休みもよくやった。人間相手に最適解なんて繰り出せなかった。寝込んだ。めっ〜〜ちゃ寝込んで二度と挑戦なんてしないと泣いたが、今、正直その痛みを忘れてしまった。ばかなのかもしれない。

でも傷ついた失敗なんて所詮その程度なんだと思ったし、じゃあもう大したことないじゃんって。あと確かに傷付いたんだけど、なんかその失敗、別に失敗じゃなかったみたいで、とてもいい方向に転がってる。だから失敗って、そもそもなんだよって感じでもある。傷付いても成功か?失敗や成功って何?じゃあもうとりあえずやってみようよ。

 

自分で色んなことを選択して生きているから、その分、たくさんの責任はついて回るんだけど、それで得られる自由がとても楽しい。空っぽの二ヶ月半の春休みで、自分から色んなことを動いてみた。すごく楽しかったし、全てに意味があったような気がする。

 

新学期、なんか色々またたくさん動いて楽しく過ごしたいと思う。とりあえず11月までにコミ……と事例検討をしたいっていう今年度の目標をここに打ち立てておくね。

さよなら春休み、よろしく新学期。

誰でもいい、なんていう悲しい連鎖を断ち切れ。

人間に代替はきくのか、ってことをずっと考えてた。

「あなたの代わりなんていないから死なないで」なんて言葉は自殺を止める常套句としてありふれてる。命に代替も何もないことはみんな知っててとっくにわかってることだ。

 

それでも、誰しも「ここにいるのが自分である必要があるのか」って考える瞬間があるんじゃないかって思う。それこそ友達同士でいても、言ってしまえば彼氏や彼女でも、別にここにちょうどよく嵌る立場が、他にあれば、自分、である意味も必要もないんじゃないかなって。自分がここに嵌ったのもタイミングが合ったからだって。一緒に学校でつるむ存在、ただ誰でもいいから好きだと囁いて抱きしめてくれればいい存在。その人間関係に亀裂が入って失敗したら立場を取り替えればいい。切れた人間関係は断絶するか、知らず知らずのうちに疎遠になっていく。くるくる、くるくる、その立場が必要だから代替のきく人間関係を探し続ける。一人はさみしいから。

 

この人がいないと回らない、っていう集団や組織は存在しないと思ってる。一人欠けて倒れてしまう組織は所詮、その程度の維持不可能なものだったのだ。特別な立場を求められて、そこで叶える人間関係は確かにたくさん存在していて、そこで立場を果たすことで生き甲斐とか、生産性とか、組織の存続に繋がっていく。でも、そういう立場の代わりはいくらでもいても、どうしても、存在の代わりはあってはならないと思う。

 

「この人だから意味があった」って思える、代替とかそんな話ではなくて、意味付けの話。「この時、この人がそばにいてくれたから、だからこんなにも救われたんだ」って感じることができる、そんな素敵な関係性が確かに存在してることを知った。そこに友達とか恋人とかそういう押し込むような立場や枠組みなんてひとつもなくて、ただ「わたしと、あなたが、ここにいることに意味がある」と思えたから、代替のきかないというか、そもそも、代替という概念のない人間関係があることを感じた。

 

人間関係って鏡写しで、相手が自分である必要を感じてないなあって思うとき、ほんとは自分が相手である必要を感じてなかったりする。お互いが壁張って、代替がきくよね、もし大切にして裏切られた時に傷付くのが怖いからってどっちも日和ってるから、やっぱりどちらかが、壁を壊して信じることを始めないと始まらない。そこで、ハンマーを持って壁を壊せる勇気を自分は持っていたい。裏切られても相手を詰るのではなく信じた自分を責める。信じたことにちゃんと責任を持ちたい。

 

誰からも自分が必要とされてないと思うとき、ほんとは、自分が誰も必要としてないのだ。それかほんとに誰でもいいと思ってる。誰でもいいから自分を肯定してくれ、だなんて、それは「誰か」っていう立場を求めてるだけで、特定の存在を求めてるわけじゃない。だからいつまでも寂しいままだし空虚が埋まらない。

誰でもいいと望んで埋まった、その「誰か」の立場は、代替がきいてしまうから。一生顔のない誰かを求めて彷徨って、でも人間ってこんなもんだよね、大人って寂しいよねって、みんな諦めてる気がする。すごく悲しい連鎖だなあ。

 

 関わる人間の全てが代替がきかない存在だ、までは言い切れないし、そこまで人を無条件に愛せない。それでも、その中の少しでも、この人だから意味があったんだって信じられるような存在が誰しもあって欲しい。

 

信じるって何だろう。この人はこういう人だって決め付けたりこの人ならこんなことはしないっていうのは信じるってことじゃない気がする。信じてるって伝わらないし、そもそも人のことなんて完全に理解なんてできない。

ありがとう。あなたでよかった。あなただから意味があった。そうやって言い続けることも信じるってことになるんじゃないかな。信じてることを伝えられるんじゃないかな。

 

この人は都合よく側にいたから私であることに意味を感じてないんだなって、思う瞬間がたくさんあったけど、多分それは私も同じように思ってるんだと思う。誰でもいいから慰めてくれと泣いて床に伏せてたけど、別に全然誰でもよくなかった。

誰でもいい、って枠を埋めることを求めるんじゃなくて、あなたがいいって存在を求めたい。その意味付けをしたとき、そしてその意味付けを相手もしてくれた時に、すごく満たされると思う。人を信じることは怖いけど、そうやって悲しい連鎖をどうか断ち切って欲しい。

300の殺人と20000の自殺

どうしようもないやり切れなさに苛まれたとき、最近知ったあるデータを思い出すようになった。2015年、今、日本国内での年間の殺人による死者数は約300人だそうだ。それに対して、年間の自殺による死者数は20000人を超えている。夜道で突然人に刺されて殺されるより、人間の狂気は、本当は、内にあるんだなということを知った。自分を殺す敵は自分の中にいるのだということがずっと頭から離れない。猛烈に死にたくなるたびに、そのことを思い出して踏み止まるような、振りをしている。

 

いやほんとはね。もっとハッピーなことを呟きたいと思うけど、ここはやっぱりある程度キツい事ばかり抽出しちゃってるので、ここしか見てない人には迷惑や心配を掛けますね。コメントとかくれるなり個人的に連絡をくれれば、擬態してハッピーなこと言えるかもしれないし、逆にここに書くという作業をしたことでハッピーになってることも割とあります。ごめんなさい。あくまでここは掃き溜めでしかないです。あと自分のその時考えていたことを覚えておくためだけの場所です。アクセス数とかそういう数字では何の救いにも足しにもならない。見てるだけじゃなくて、何事もきっと、声を掛けないと何も起こらないのは一緒なんだろうな。

 

自分では、まじでここ一年くらい自他共に、失敗してもへこたれないメンタルの強さを売りにして頑張れてきたんですけど、一週間前とかに余りにもショックなことがあって、ずっと手が震えていて動けなくなっていて、こんな、人は、たったこんなことでショックを受けて立ち直れなくなって簡単に死にたくなるんだあということに絶望してました。こんなに積み上げて自分励ましてきたのに、全部、嘘で無駄だったのか。何も変わらない弱い自分のままじゃんって。ショックを受けたことにショックで、絶望して、死にたくなる自分のこと甘やかしたくなって、誰のことも大切にする気がないのに、とにかく誰でもいいから自分のこと必要だって言ってって吐いてました。

未だに思い出すたびに手が震えるし胸がずっとえずくほど物理的に痛い。精神的なことなのに身体がちっとも動かない。たったこれっぽっちの他人のことで、こんなにもショック受ける自分が弱くて可哀想で、誰かに哀れんで欲しかった。ああ死にたいなあとメンヘラばりのことを思ってる自分が、そんなのとっくに克服したはずなのにキツいなあと、それでも死にたいなあと思ってました。

床に伏せてることしかできないのにだんだん横になることが辛くなる。足が痛くなる。引きこもりの頃を思い出して死にたくなる。部屋がきたないから病んでいくのだとわかっていても、部屋を片付ける気力が湧かない。気晴らしをしても何一つ気分が晴れない。何も考えたくないから現実逃避して眠る。そして夢を見る。当たり前のように生きてるあの子が自分を叱る。泣きながら目を覚ます。

調子がいい時は芋蔓式に全ての物事にプラスの意味づけができるけど、こうやって調子が悪くなると全ての物事にマイナスの意味づけをするから自分の生存理由を疑って、死にたくなる。

 

今回元気になったのは、自分はずっと諦めてたし、周りも言ってたし、ほんとに絶対無理だと思ってたことが、何か知らんうちに叶ってたからだった。めちゃくちゃ泣いた。泣きながら部屋の断捨離をした。どうやら自分じゃなくちゃ駄目なことみたいだったから、ああ生きてていいんだ。15の時に死ななくても意味があったんだって思えたからだった。やっぱり誰かに必要とされたかった。

 

今回のことでこの死にたがりは治んないなと確信したし、諦めた。弱気になった時に、自分は多分、死を逃げ場にしたがる。死なないけど、死にたがりは治らん。

全部が元気になることは無理だし、狂気は自分の中に孕んでるってずっとわかってたのに余りにも幸せすぎて、ちょっと忘れてた。

死にたいって気持ちはずっとあって、それよりも少しだけ、生きたいとか、生きてていいんだって気持ちが上回るから、上皿天秤はぐらぐら揺れて生きる方に傾いて何とか生きてる。

 

いやまじで死にたくなるほど傷ついたので、この傷ついたことは喉元過ぎても、熱さは忘れたくないなあ。傷ついたって事実を忘れたくない。別に向こうが悪いわけじゃない。だから被害者ぶれないし責任転嫁なんてできないから余計傷ついた。結局自分を責めたのは自分だ。こんなに傷ついたのは、相手を信じた自分が揺らいで、過去の自分を疑ったからだ。

 

珍しく最初から、人との付き合い方を間違ったかなあと考えていた。出会わなきゃよかったって今更考えてもどうしようもない後悔をした。

周りに自分は間違ったかな、って聞いたら、やっぱり何かが違うんじゃないかなあと言われた。みんなそういうなら、じゃあ、間違ったのかなあと考えてた。

でも、全ての人間関係なんて最初は信頼がないと始まらないし、そうやって始まった人間関係しか、今、自分は持続してない気がする。

それこそ、好きです付き合って下さいって言って相手の気まぐれで偶然、みんなの言うそういう意味でうまくいっていたとして、結局信頼の存在しないそんな関係だったらすぐに捨てられてポイで二度と口なんて聞いてくれなかったんだろうなと思う。ポイされなかったのも、もしかしたら温情なのかなって一年前のことを思い出していた。ポイされるかもしれないと怖がってたけど、そうされなくてめちゃくちゃ安堵したあの瞬間のことも。

ポイされてもいいから付き合いたいということを目指し続けられなかったから、お前は間違っていたし愛も恋も知らないんだよ、って言われてもよくわからない。そんな簡単になくなってしまうような人間関係は、最初に好きになった時から望んでなかった。

望んでもなかったし自分にはそういう刹那的で人間関係をポイできるような器用なことは、何一つできなくて、仲良くなりたい、わかりあいたいと思った人間に対してはまずはとりあえず、向き合うことしかできなかった。

どんな相手だってそうだよ。母だって父だって、いつもそばにいる友達だって、疎遠の友達でも、目の前の子どもでも。だから好きになった人でも、自分は、その人に一目惚れなんてしなかったから、だから人として、向き合いたかった。

それが間違いだったというなら、世の恋愛の多くが捨てられて断絶して終わりだというのなら、やっぱり自分は強欲だから捨てられたくなんてなかったんだよ。確かな友愛の先にある愛が欲しかった。

友達になりたかった。その想いはずっと最初からあるし、今も変わらないし、今もその友愛の先に本当の愛があるのか、ないのかはわからない。それでも信頼できる友達になりたいと思うって気持ちもほんとだから。

でも、例えば恋が叶わなかったとして、じゃあ積み重ねてきたものも信頼も何もなかったって思いたくも後悔もしたくもないなあと思った。いやでも好きになった相手、いくら積み重ねても更地にしかならないような相手だし、未だにポイって捨てられそうだ。あとそういう可能性がないって断言されて死にたくなるくらい予想以上に傷付いたからなんか全然ダメだ。怖い。傷付きたくない。

 

だから保身に走ることにしますよ〜〜!! なんか本気で他のものも色々探してそれでもやっぱりダメだったらまた帰ってくる。ちゃんと失恋しよう。傷付いた自分をちゃんと可哀想だと自分で言って引導を渡そう。ありがとうね。また、ここに戻ってくるだろうか。

 

悲しみに向き合う

低気圧と歯痛と腹痛と精神的ストレスのフルコンボでぶっ倒れてました。これから鎌倉に言って江ノ島の海で叫んで来たいと思います。ふざけんなって。幸せになってくれって。

 

人は自分のためには生きられないんじゃないかなってことを最近思ってる。自分の中だけで自立してちゃんと生きようって思ったってどこかで限界がきて、自分で自分のことなんて励ませなくなっちゃう。

だから、あの人がいるから自分は生きよう。あの人を大切にするから自分は生きなくちゃならないって、人を大切にすることが生きるためには必要なんだと思う。生きて、生きて、いつか笑って死ぬために。

あの人には自分がいないとダメだとか、あの人がいないと生きていけないとか、他者に生存権をぶん投げるような生き方だと、多分自分のことは大切に出来ないんだと思う。

自分を一番大切にするのは、やっぱり結局自分であって、でも自分一人じゃ自分のこと大切に出来ないなんて、おかしな話だけどそんな気がする。

 

悲しみに向き合う、ってどういうことだろうって、この前自主ゼミで話題になった。3.11とかいじめとか離婚とか配偶者や家族の死別とか、悲しいことがあったとき、それをトラウマとか言い訳とかにせずに、前に進むためには具体的に何をしたら、向き合うってことになるんだろう。

アウシュビッツ収容所に入れられた経験のあるヴィクトール・フランクルという人がいて、彼は著書の中である方程式を述べていた。

「絶望=苦悩-意味」

意味という項が0であれば苦悩はそのまま絶望になってしまうが、苦悩と対等、またはそれ以上の意味を見出すことが出来れば絶望はなくなるというものである。言い換えれば、意味のない苦悩が絶望である。

それを引用して東京大学教授の福島智がこう述べている。

この式の右辺の「意味」の項を左辺に移項すると、

「絶望+意味=苦悩」

となり、絶望に何らかの意味を付けてしまうと苦悩になるとも解釈できる。意味さえあれば苦しいから不幸だってわけじゃなくて前を向いて生きて行くことができるのだと。

 

悲しみは絶対なくならないものだし起きたことは変えられないと思う。私だってそりゃ妹を亡くしたという事実だけはどう頑張って捻じ曲げられない。あの時生きてるうちにこんなことをしておけばよかった、とかの後悔はやめた。だからそこは諦めた。彼女の死を何かに生かそうとも頑張ったけど無理だと思った。それでも踠いて苦しんでたら自分より苦しそうな人を見つけて、その時初めて妹が死んだからこそ人に寄り添えることがあるのだと知った。妹が死んだからこそ、寄り添ってもらえる人の優しさを知った。妹が傷でもトラウマでも同情を誘うものでもなく、人と関わるためのツールになった。その時初めて、妹の死に意味が生まれた。妹が死んでしまったからこそ築けたコミニティに支えられて、自分は今、生きている。生きようとしている。

 

悲しみってその瞬間が苦しいんじゃなくて、それを後から何回も何回も何回も反芻して自分のことを責めることが、そしてまた似たような経験にぶち当たって尻込みしてしまうことが、自分の傷としてトラウマとして育っていくんだと思う。あとドラマティックな悲しみがみんな好きだから、その瞬間の悲しみを切り取って、それこそメディアで取り上げたりドラマにしたりしてる気がする。悲しみってもっと長期的なもので、人が死んで悲しいんじゃなくて、あの人がいない人生を歩むことが辛いんじゃないか。

だから、悲しみに向き合うとき、その長期的なものごと向き合わないとならない。人が死んで悲しくったって今の今まで生きてしまっている。その生きてしまっているし、生きれている苦しみに向き合って、その悲しい瞬間の延長線の、今のことをちゃんと見据えないとならない。そして、未来のことも。好きな人をなくした、壊れた、失ったその先、自分はどうやって生きていくのか。

ゲームクリアエンドロールの真っ暗のその先、確かにあなたは生きていて物語は続いていく。ゲームじゃないんだから、人生は愛する人がいなくなったくらいじゃ終わってくれない。

 

人に傷付けられて長期的にできた傷は、特効薬とかなくて結局長期的に直していくしかないんだけど、それでも人によって傷付けられたのなら、癒すのは結局、また、人でしかないと思う。

大好きな家族が離婚してしまったけど自分は生きてる。大好きな家族が死んでしまったけど自分は生きてる。家も全部流されてしまったけど自分は生きてる。

生きてしまってる、んじゃない、ちゃんと生きてる。生きるのを選んでるのもちゃんと自分だ。死ぬのが怖いっていうのも立派な選択だ。

強くあった方が、何かと生きるのは楽だよ。甘えて言い訳ばっかして泣いてた私が、そうやって生きるようになってすごく選択肢が広がった気がする。

だから、あなたも生きて欲しい。

 

恋愛が破れた先にだって友情は残り得る。

男女間の友情は成立するか?

恋愛観とか価値観とか人それぞれだとか、色んな人が色んなことを言って結論付けたがってる昔からの議題だよなあと思う。最近、友達が増えて、またふと考えた。そうしたら、自分なりに答えが出た。

そもそも、友情ってなんですかって話。

例えば、自分には異性の友達が何人もいるし、そういう意味では男女間の友情は成立するとは思ってるんだけど、それこそ、その異性の友達の中には、かつて好きだった人も含まれている。じゃあ、その人たちは昔恋愛感情を抱いてた、つまり友情からずれたことがあるから友達じゃないのかって言われたら、そんなことはないんじゃないかと問いかけたい。

それこそ友達を好きになったとして、そこまで築いていた友情は裏切られ、なくなったことになるのか?って聞かれると、首を傾げたくなる。

恋愛と友愛の違い - 人間蘇生だモラトリアム

いつかも、友愛と恋愛の違いを考えていたことはあったけど、それこそ友愛が恋愛に発展したからってその友愛が消えることはないんじゃないかなあと思う。

それこそ片方が友情しか感じてなくて、もう片方が恋をしてしまって、そのすれ違いによって裏切ってしまったとかそういう気持ちはもしかしたら生まれるのかもしれないけど、それこそ「好きでいること、好きでいたことを許す」という、ある意味で宙ぶらりんの上に成り立つ友情だってあっていいんじゃないかなあと思う。告白が破れた先で友情が拒絶されなかったところにしか存在し得ない、不思議な世界なのかもしれないけど。

なんでも人間と人間の関係を記号みたいに決めなくてもいいとおもってる。友達とか親友とか恋人とか、あって、友達以上恋人未満とかしかなくて、余りにも人間関係を表現する単語が日本語には少なすぎる。

「片想いされてるけど友達」とか「付き合って別れたけど友達」とか、ちゃんと向き合って互いが認め合えば、恋も愛も友情の足枷にはならないと思った。

身近な友達を見ていてそう思った。家庭を築く為のけじめとして、元カレとか元カノとか縁を切らなきゃならないのかなあって思っても、やっぱりその根底に始まりの部分に友情が存在したらそんな悲しいことはしなくていいんじゃないかなあと思う。

ずっと自分だけが片想いし続けてて向こうが友達としか思ってくれなくても、別にそれは裏切りでもなんでもなくて、あなたがそうやって友達を演じ続ける間にでも友情は育まれてるものだから、その信頼は裏切らないで財産として残り続けると思うよ。

友達の彼氏や彼女と仲良くなったからって、それはそれで叛逆でもなんでもないし、そういう形での友情なんだよ。友情って形付けたくないし違うのかもしれないけど、人間の関係性としては確かに存在している。そのために必要なのはやっぱり信用と信頼と人を愛することなんだと思う。裏切られることを怖がらないでというか、やっぱり裏切られたその時は信じた自分の責任なんだと思うし、思いたい。

男女間の友情とか言っちゃったけどLGBTの人もいるわけだし、そういう人たちも含めて、恋をしたからって、そして付き合って愛し合ったからって、そこに友情が存在してもいいんじゃないかなって思う。最中でも後でも。友情はどこにだって成立するような愛だと思ってる。友情だけじゃなくていいんじゃないかな。どこかに友情があれば、それだけで人は仲良くいられると信じていたい。

愛することを目の前のひとに許される、そんな契約を結んでどうか幸せになりたい。

夢を見た。

人に愛される幸せな夢だった。あまりにも幸せだから、夢の中の自分は酷く動揺してその愛を必死で拒んでいた。そのくらい唐突で、でもどこか現実と地続きな姿をしていた、その人はやっぱり私の妄想の産物だったんだと思う。

目覚めた時、覚めないで欲しかったと思う気持ちと、こんな純粋でシンプルな愛を自分は深層心理として望んでいたということによる自覚に心が落ち込んだ。幸せな夢を見るときはいつもこうだ。正夢になればいいと思うけど、あまりにも、遠い。自分のどこまでも広がってしまう無限大の想像力が憎い。

 

最近、周りの大切な友達がどんどん幸せになって、というか愛すべき人を愛して、愛されて笑っていて、本当に良かったと感じている。

人を愛せることを許された喜びと、愛されることを享受した喜びを又聞きみたいに聞いている。私を介さなくても、それはちゃんと本人に伝えてあげてほしい。やっぱり愛が届いているのを見るのは楽しいし、いいなあと思う。

 

届かない愛に意味はあるのか。

せっかくなら届く愛に労力を割きたいけど、非効率で無意味で自分で決められないから、意味のないものを愛してしまうんだろう。歪で、苦しくて、それでも自分を保つために人を愛する。いつかそれが許されたいと思っている。

 

許されない愛を世界で一番大切にしていた。届かない絶対的な死者へのラブソングを歌って、笑って。楽だったよ。指標が骨となって動かないから、どんだけ乱暴に愛したって自分を哀れんだって構わないから。そのために未来の全てを生贄に、自分の10歩先すらも見えない毎日を過ごしていた。考えたくない。そうやって逃げて逃げて逃げて逃げて、周りの人の愛に気づけなかった。死者を愛すのは楽だ。だって動かないから、裏切ったりしない。死者は喋らない。

だから、生者を愛してしまったとき、レスポンスが帰ってくることにびっくりした。拒絶でも無視でも、向こうの選択でこの愛が蔑ろにされてるということに驚いたし、しかし、だからこそ可能性があるから届けたいと思ってしまった。今も思ってる。どんなに無視されてもただ愛せることが心から嬉しかったくらいには、私は、愛を線香の煙に飛ばすことに慣れすぎていたのだ。よくないことだと気付いた。

 

それでも、こうやって周りで届いて結ばれる愛を見ていると、普通の人はこれを当たり前のように目指してるんだなって思った。死者から生者にグレードアップしても、無視されることに慣れちゃダメなのかなとも思った。届かないなら諦める勇気も必要なのかもしれない。

結局、私は何がしたいんだ?

 

強欲になりたい。ずっと幸せを追い求めていたい。今も本当に幸せだ。だからこそ、私も幸せに愛されたいというか、愛すことを許されたいと思った。

多くを望んでないのは本当だよ。ただ好きなゲームの話をして笑って語ってそういう日常がいつか、帰ってきてほしい。やっぱり、その無くした遠い遠い普通の幸せを私は、また別の形で作りたい。代替したい。許されたい。愛すことを許してほしい。

さみしいことはさみしいと言っていいんだとわかった。人に囲まれて本当に毎日楽しくて、愛されてありがとう。でも、かつて失くしたあの子の代わりを探してる。みんなの特別ではあるのに、誰かの特別にはなろうとしない。誰かの特別になりたいんじゃなくて、特別を手に入れたいみたいだ。結局は死んだあの子の影を探し続けている。

 

人が好きだと思った。改めて。一方通行のこの愛を届けたい。届いたってことを知りたい。まだ届いた気がしないよ。届くことで私も幸せになりたい。残酷なくらいに普通で幸せなあの夢が、本当に叶ったらいいのになあ。