人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

抽象を取り払って、今、目の前の人をみること。

ニュース見てからどこか大分気分が暗くて、さっきまで気絶してたのでやっぱりトラウマは改善されてないのか〜っていうか乗り越えられるものでもないよなと思いました。自分はこうやって亡くなっていく人にたくさんたくさん触れ合っていくかもしれない仕事に就きたいと思っているので、この先の進路でいいのか、こんな遠くの会ったこともない人のニュースで自分のことがフラッシュバックして傷付いてるなら余計無理じゃないのか、もっと見ないふりして生きていけるはずだぞ、とぐるぐるぐるぐるしていた。

 

美しい話ですよね。本人が美しい話とか可哀想だと思わないで欲しいと願っていたことも含めて本当に皮肉ながら美しい話ですよね。「愛しています。」で人生の幕を下ろせる、死者がここまで気高く一瞬一瞬を強く生ききったことに比べて、遺される人たちのなんて弱いことか。

生前の死者が美しいほど、気高く強く生きたほど、本当に皮肉ながらその美しい思い出がどこまでも呪いになって蝕むことを、痛いほど、それこそ死にたいほど知っている。でもあんなに生きようとしていた死者に顔向けできないから死ねなくて、それでもあなたのいない世界は色がなくて死にたいと願ってしまう。美しい想い出に、私だって、ほんの1日だけでいいから帰りたい。そうしたらこの先それを抱えて生きていけるような気がする。

ただ、想い出は美しいけど、自分は、その想い出を抱えて呪いのままそれでも生きたいと思って、生きる人間の方がずっとずっと美しいと思っています。強さが美しいなあって。

だから今は悲しんでいい、現世のことは地獄としか感じられないかもしれない。それでもやっぱり過去を取り戻したいって思いは消えなくてもいいから、それと同時に、未来を生きてみたいよって思える気持ちが育まれたとき、それが人間の強さなんじゃないかな。

妹の葬式の時、「これからがつらいんだよ」って言ってくれた妹の友達のお父さんがいて、そのお父さんも昔、家族を亡くしていて、「よくがんばったね」とか「つらいよね」って他の人みたいに言わなかったその意味がやっとわかった。きっとその人も今でもつらいまま、それでも、今を生きてみたいと思ったから、そうやって私に言葉をかけることができたんだなって、私も今なら同じように思うし、声をかけたいと思う。ニュースを見ながらそんなことを考えていた。

 

抽象的なことって人間理解に遠いねってすごく最近感じる。というか、自分がずっと考えてたことの全部の悩みは、人を真っ直ぐ見ることで解決するのだということに気付いた。

「彼氏」が欲しい。

「彼女」はいらない。

「障害者」は生きる価値がないから殺した。

自分だけじゃなくて「他のみんな」も傷付くよ。

うちの学級の「子ども」は荒れてるなあ。

「家族」だから離れられない。

「誰」もわかってくれない。

「全人類」とわかり合う気がない。

「社会」の中で私は価値がない。

「世界」平和を目指したい。

 

括弧で括られたたくさんの抽象は、もっともらしいことを言っている気がしてるけど、実際の人とか社会とかの様子が何一つ見えてこなくて、それってただ枠組みの中に詰め込んで、とりあえず無理って決めつけてるだけなんじゃないかって。

ねえ、私を見てよ。目の前の人を見ようよ。誰だってこんなサインを出してるんじゃないかな。私だってそう思ってる。

変なラベリングや立場を取っ払ったとき、それ以前に、人と人でしかないから。私とあなたの話でしかないから。私はまずそうやって、どんな立場でも誰に対しても向き合うことしかできない。向き合って見つめて愛することしかできない。それも今。過去とか未来の誰かじゃなくて、今のあなたを見ることしか、できない。逆にそれだけは、できる。

相模原事件のことを考えていたんだけど、あの被告は結局、障害者のラベリングを外せずに社会的に価値のない人間は死ぬべきだという優生思想に、理想に走ってしまった。障害者を障害者としか見ることができなくて、人間だと、一人の意思を持つ人間だとわかってあげられなかった。人と向き合えなくて、抽象に逃げて世界平和を謳った結果があの悲しい事件で、言葉がなくても人間だとちゃんとわかってくれなかった。

目の前の人を、過去も未来も何も考えずに見据えるってことの難しさってとてつもないなって思う。過去に縛られて未来は暗いと決めつけて自分のことしか見えてなかった私が、目の前の人の今を考えられるようになったのは、今が、楽しいからなのだと思う。

生きたいと思った。だからもっと幸せに生きたいと思う。

全人類無理でも、お前ならいいよって言われたいって最近思ってるな。

 

そういや「愛しています。」と言った彼女の呪いに対して、うちの妹が遺した言葉はそういやめちゃくちゃ抽象だったなということを思い出した。

「ひとってなに?みんなってなに?」

正確には「ひとってなに?」って聞かれたから、私か母か父かわかんないけど誰かか「それはみんなだよ」って答えたら「みんなってなに?」って質問を重ねられた。ひとやみんなが何かって結局その時はうまく答えられなくて、伝えられなかったから、私はその答えをずっと、今の今まで探してた気がする。

「ひともみんなもわたしのことだよ。わたしがいるよ」って今なら迷わず、手を握って真っ直ぐ答えられる気がする。抽象じゃない。具体で。あなたの闘病の過去も死後の未来もない。今、この目の前にわたしがいること。ただその一瞬を大切に伝えられたらよかった。

それがなんとなく最適解かなって今、思うけどこの答えは今だからこそ出せたから、あのとき戸惑い傷付き苦しんだ、自分のためにこの結論を今は、ここに置いておくね。

 

それでも妹の遺品を辿ると大切なものの欄に必ず「家族」って記されているのを少なくともわたしは気付いているし、あの子は最期に、母親の方に手を伸ばして抱きしめたのを知っているから、結局あの子は、わたしと父と母に尋ねながら、ひともみんなもなんなのかわかってたような気がするな。

わたしは病院に着いてから錯乱してからの妹がずっとずっとこわかったんだけど、やっぱりあの子はどこまでも強い子なので、最後まで人間の真理をちゃんと考えてわかって、訴えていたようにも感じる。死んじゃって6年とか7年とか経つし私がようやくたどり着いた答えを最初から持ってた気がして、ああ敵わないなって思っちゃう。一生もう敵わない気がするけど、こうやって私の中で問いとして命題として生き続けてくれるんでしょ。

ならやっぱり、私はまだそれを解決し続けなきゃならないから、一緒に戦って生きてくれ。生きたい。時々やっぱり呪いになるけど、これは、私の死にたい理由であり生きる理由であるから。

だから、末長くよろしく。

ただいま

ただ、苦い欲が残るだけだった。

幸せで楽しい時間の終わりには欲が出た。めちゃくちゃ楽しかったのに、だから、さよならを言うことがものすごく辛い。憧れと嫉妬と尊敬とか言ったって結局は、そんな無理矢理当てはめたみたいな言葉じゃなくて、感情で一緒にいたいと思う。ああ、好きだなあって思うだけだ。一緒にいて楽しい。もっと一緒にいたい。それ以上に望むことが何もない。

 

幸せすぎるから終わりのことを考えてしまう癖があるし、どう足掻いたってあと一年と半分もないこの有意義な大学生活の中で、早く恋心が死んでしまえばいいのにと、また思う。それなら本当に楽だ。それでも、自分がこんなにあいつに関わるのは好きだからだし、あいつにとって大学生活を思い返したときに、私の影がたくさんちらつけばいい。いつかどこかで大学のことを思い出したら、私のことを是非、思い出して欲しい。

 

埋め合うから人は人を好きになるのだろうか。心の空虚を埋める為でも、自分を犠牲にするわけでもなくて、私はね。あなたを受容したことで、私が受容されたことで、すごく生きやすくなったのだと思った。許された。生きることを。向き合いたくなかった私のことを、受け止めてそうしてくれたあなたを、私も受け止められたらいいなと思った。あなたを受け止めるために私は私のことを受け止めた。人なんか放っておけよと言う、そんなあなたを放っておけない私でごめん。

 

ねえやっぱり、あなたと生きてみたいと思うから、私はこんなに苦しいのだろう。終わりが怖くて悲しい。どうか終わらないで。こんな私じゃ何もあげられないのかもしれないけど、私は私でしかなくて、それでも、あなたを受け止めながら、私は私らしく生きることしかできないから。

 

好きだよ。あなたじゃないとダメってことはないのに、あなたがいいと思うよ。やっぱり責任も何もいらなくて、なんだろう。なんなんだろうね。わかり合いたいと思うのかな。

結局ここに戻ってきてる。ただいま。おかえり。また行ってらっしゃい。

ゲームと想い出

無性に会いたくなって、妹の言葉を探していた。

 

不安になると妹が、もうよく頑張ったし死んでもいいんだよって夢で語りかけてくるのだが、今はわりかし満たされてて幸せで、だから妹のことを忘れてしまうことが急に怖くなった。

 

思い出そうってメールを開く。小学生の癖に、大人びた口調の漢字だらけの文面が目に付く。私と同じ、東野とか伊坂の本を読んでいたから、書けなくても読めるから変換ができてしまうからだろうな。メールを介して妹のことをなんとなく思い出してはいたけど、メールをしていたのは妹が入院中だったから、死ぬ間際の普通に過ごしてた時期の音声言語は勿論、全然残っていない。私に向けた妹の言葉に触れたい。実家の恥ずかしい二人の交換ノートが読みたくなる。

 

妹が病気になる前なら、もう10年も前になるのか。記憶が薄れることが怖い。最近あまりにも幸せすぎて、昔の幸せのことこのまま忘れてしまうのかな。妹とどうやって過ごしてたんだっけ。強烈な死ぬ間際のこととか、病気になってからのことしか、私はもう覚えてないんじゃないかな。思い出せない気がする。人から聞いても手紙を読んでもそれは断片的な事実でしかなくて、私と妹のことや関係性を改めて知りたいのに、もう妹がいないから、私が忘れてしまったら、その想い出は忘れられてなかったことになってしまう。忘れたからってなかったことにはならないし私の生き様に繋がってるのかもしれないけど、それでも、もう誰も思い出してくれない。

 

そう思ってたんだけど、妹の遺物に大量のゲームがあったことを思い出して、妹とやったゲームのことを思い出したら、たくさんの記憶が蘇ってきた。カービィのエアライドのシティトライアルでドラグーンとハイドラを両端からぶつけたり、レールの上で4人タイムアップをさせたり、vs.デデデが倒せなかったり。ドライブでお花を探して塔の上に登ったり、枠外の海に出てどこまで行けるか泳いだり、水車に乗れないか遊んだり、空中庭園ではしゃいだりした。

MOTHER3のポーキーをラスボスだと勘違いしてわざわざラスボスのために二階に上がったのに倒してもらうためにわざわざ一階に戻ってきたり、DCMCパンフはブタマスクに強いことを教えてもらった。

BWでは下画面ワイヤレスに感動して、一個街を進むごとに旅パで勝負し続けていた。だいたいこっちが勝ってた気がする。バオッキーが強かった。それでも図鑑集めはそっちの方が早かったし、そもそもゼクロムに二人とも一目惚れしたのに姉権限でとってごめん。ポケモンはだいたい私が譲らなかったひどい姉だったね。FRLGでは延々スロットしてたし、HGSSではレッドを倒すためにお互いめっちゃ苦労してたな。

ウルトラスーパーデラックス、スーパーデラックスがやりたくて二人でずっと夢みてたのに、私がテスト期間で我慢してたら先にやってて100%のデータ渡された時はめちゃめちゃショックだったよ。クリア早すぎだよ。ドロッチェ団のタイムアタック速すぎ。3の協力プレイはめちゃめちゃ楽しかった。ゼロ戦で断末魔上げてごめん。毛糸のカービィのアモーレめちゃくちゃ弱かったね。私のために二週目全部付き合ってくれてありがとうフラッフ王子。

スマブラでは私のストーカービィを見切るようになったから、どっちかというと撮影会ばっかしてた気がする。妹はオールマイティ使ってたなと思うし、でもやっぱり二人ともカービィ好きだったけどこれも私がピンクばっかりとるから黄カービィだったね、ごめん。ゼルダがめっちゃ強かったと思う。ディンの炎がマジで避けられない。あと、ルイージも強かった。スネークとスタフォ勢のコマンドのために命燃やしてたね。全キャラ見たはずだな。

スーパーペーパーマリオマリオギャラクシーゼルダマリオパーティ5、馬鹿みたいだ。ゲームに関してならこんなに思い出せる。ゲームは想い出付加するって思ってたけど、ほんとにゲームに関してしか想い出がないみたいじゃない。

ゲームがあってよかったし、私がゲームを好きでいれば、きっと絶対忘れないんだと覚えとこう。

妹が死んだ時ゲームも嫌いになると思った。想い出が深すぎるから。でもこうやって、どうしようもない夜に思い出したいときに、助かるなあと思うようになれるとは思わなかった。思い出したらまたここに増やしていこう。

 

なんだかいい方向に進んでるそうです。最近褒められた。もっと幸せになりたいなあ。

自己受容できてない奴に人を愛する資格なんてない

夢を3日連続くらいで見るんですけど、見るたび夢の中で会う人の懐古が増してる。見るたび昔の人に会う。しかも今、大人になった姿で。いまなにしてるのかなあって深層心理では自分が会いたいと思ってるのか。連絡も取れないくらい、遠い人なのがもどかしい。

 

最近、カップルとか夫婦のことについて考えてました。

自分の両親の夫婦仲は良いんですけど、自分の知ってる、他の夫婦たちは、仲の良い夫婦とダメな夫婦だと、ダメな夫婦の方が少し多い気がします。

深い事情は知らなくても客観的に感覚として「どうしてうまくいっていないのか」ってことはなんとなくわかるくらいには、不仲の夫婦をたくさん見てる気がする。お嫁さんがヒステリックとか、旦那さんが亭主関白すぎるとか、二人とも多忙すぎるとか、目に見える明らかな個々の原因とは別に、何か大きな共通点があるんじゃないかなあって、感覚としてはわかってたけど、上手く言語化できてなかった。

 

「所詮は相性や価値観だよ」

そういう言葉を言われて、あまりにもざっくりすぎて、自分はあんまり納得してなかった。正論すぎるけど、じゃあその相性とか価値観ってどうやって測ったらいいの? 第六感?なんとなく? 相性が合ってると初めは相互的に思えたはずの夫婦がダメになってるのはどうして?自分の経験則がないから、わかんなかったけどその分客観的に見えるものは多かった気がする。それこそ年齢関わらず。20〜80歳のカップルや夫婦をたくさん見てきてる。そのどれもに共通する原因ってなんだ。

 

自分の今辿り着いた結論も、結局は、相性次第だと思うんだけど、相性が合うってことは「相手を受容できるかどうか」なんじゃないかなって思う。

「相手がありのままであるということを受け入れられる」ってこと、つまりは「他者受容」、それが二人の間で大小はあれど相互的に成り立ってるときに、関係は持続するんじゃないかって。

そしてその「他者受容」は絶対に「自己受容」ができていない限りできるはずがないのだ。自分のこともそのまま受け入れられてない人が、目の前の人を受け入れることなんてもっと無理だ。

自己受容ができてないと、人を愛することもできるはずがない。自己受容できずに愛したそれは、きっと愛じゃない。

 

自分の知り合いに、昔、だいすきだったお姉さんが自殺した経験のある女の人がいて、本人は傷を多分20年近く抱えて生きているんですけど。その人は結婚すれば愛されて救われると思ったけど、結局苦しいままで、子どもを産めば人を愛せると思ったけど、結局苦しいままだということを聞いた。

それってつまりは、最愛の姉を亡くして生きてしまう自分のことを未だに受け入れられずに、姉との過去に縋り、他者に承認欲求を求め続けてるから、苦しいんだろうって思います。どんなに旦那さんや子どもたちが自分のことを愛してくれても、自分が自分のことを受け入れられなくて地に足がついてないから、それが届かなくて、苦しくて、その彼女が抱いた恋のような何かは、自分が救われたいとか、この世の全てを誤魔化したいとかそういう逃げの想いなんだろうなって。その上に築かれた家族はそりゃ暗いよ。ゼロかマイナスかってだけで、幸せになろうってプラスになる気がないなと。

自分を認められないのに人を認められるはずがないのだ。

 

人間そんな完璧じゃないので、じゃあ目の前の人を全部受容できるか?って聞いたら無理だと思うし、その受容できる範囲が、つまりは相性なんだと思います。人間は多面的なので、誰かの長所は、他の人には短所に映る。その人の、それこそ本人が自覚する性格や考え方を、長所だねってたくさん言えて受け入れられるのが、相性がいいってことで。

その本人が自分の性格や考え方を何一つ受け入れられてなくて「自分は本当はこんなはずじゃなかった」「自分はもっとできるはずだ」って言ってたら、どんなに周りが認めて受け入れても届かない。だから自己受容できてない奴に、人が愛せるはずがないんです。できない自分を愛して。だなんて。できない自分もできる自分もこの世のどこにもいなくて、どう足掻いたって、自分は自分でしかないのに。

 

私の知るうまくいってない夫婦は、この受容の観点から見てみると二つに分類できました。

まず一つは、そもそも片方が自己受容できてない人たちばかりだったんですよね。自分の今を見つめられていない。人からただ一方的に愛されれば救われると信じてる。

でも正直、人から愛されるだけで救われてる人なんて見たことない。人から愛されることで、自分自身を愛して、愛し返すことができてる。そういう二人はすごく幸せそうだなあって思います。

でも、私はとても不幸だ!!!って相手の愚痴ばかり嘆いてる人は、やっぱり何一つ、自分の今を認められてないなと。

卑屈で不幸ぶる人って、自己中心的だって最近ほんとに思います。人からどう思われてるかってことばかり気にするのって、結局は、人の目を気にして自分のことしか見てないんですよ。目の前の人なんて見てやしない。人から愛されることに頼る人は、結局、そんなの誰でもいいんです。愛してくれる誰かしらさえいれば、それこそカカシだって。そんな人が人を愛せないのは当たり前だから、だから結婚して破綻する。

相手が悪いんじゃない、自分を認められてない自分がまず足りてない。だからまずは、それに気付かないと。でも、気付いてないまま生きている人は、それこそ50歳を超えてもたくさんいるし、生きられはするんですよ。ほんとに辛いだろうけど。

 

もう一つは、相手を受容できてない夫婦。相手のこういうとこがダメだとか、許せないとか、こうすべきだと思ってしまうこと。全部受容するなんて無理だけど、その理想の押し付けの頻度が上がれば上がるほどずれて破綻してく。こればっかりは、ほんとに人それぞれの受容の許容範囲なんだと思います。向こうが変わってくれなくても自分が諦めて我慢すればいいや……って思ってしまう時点で受容範囲はずれてしまうし、それは受容ではない。どうやったて苦しい。

一緒にいて相手の長所が長所として発揮できるとか、それこそ短所すら長所として発揮されるとかそういうことが受容が合ってるってことなのかもしれない。短所があるとして、それは君の短所だから直したほうがいいよ、じゃなくて、短所は短所だからそのままでいいしじゃあそれはこっちが補うから、っていうのが他者受容した上での補佐であり、そういう夫婦は上手くいくと思います。自分の両親まんまだな〜って今書いてて思いました。うちの両親はお互いが、特に父が母のことを全面的に受容していて、母は正直そんな自己受容完璧!ってわけではないんですけど、父が受容してくれてるからその分すごく息がしやすいんじゃないかな。すごいな。

相手への不満があるなら、この人はこういう人だってことをわかった上で自分のしたいことをするという、対等さで接したらいいんじゃないかなと思います。この人はこういう人だって理解することは受容なのだと思う。この人はこういう人だからなんとかしなきゃ、っていうのは諦めとか逃げとかで苦しそうだなって。

 

マイナスとゼロを繰り返す夫婦は、あとカップルはしんどそうで、うまくいってる夫婦やカップルは、ちゃんと幸せになろうと前を向いて歩いてるプラスの考え方をしてる気がします。まだましとか普通に戻さなきゃとかじゃなくて、ただ幸せになりたいしそれを持続したいなっていう、未来へとしっかり歩んでいけるような強さ。すごく素敵だと思います。素敵な二人は、周りから見てるだけでこっちまで幸せになる。

 

人の世では自己肯定感が大切だ、なんてよく言われるけど、自分は自己肯定感は結構危険なものだと思ってるし、さっきから再度いってる自己受容と自己肯定は全く違うものです。

自己肯定は「自分はできるやつだ」と自信を持つことで、自己受容は「自分は自分だ」と認めることです。

例えば、テストで60点取った時に、本来の自分は100点取れると思い込む自己暗示が自己肯定。テストで60点取った時に、ああ自分は60点だったんだなと認めるのが自己受容で、この先でじゃあ次に100点取るためにはどうしたら良いだろう?って考えていくことに繋げるのが大切だと思っています。

 

さっきの例だけど、お姉さんを亡くしたからこそ、本来の自分は姉がいないとダメなのだって思い込むことは自己否定であり、人を死に追い込む危ない考え方だと思います。自己否定と自己肯定になんの違いがあるのだ。自分に掛けた自己暗示の、その自己肯定が間違っていた時、すぐに自己否定に走れてしまう。自己肯定は呪いだなあと思う。正しければいいけど、自分に正しく自己肯定の呪いをかけられる人なんてものすごく限られてるんじゃないかなあ。

だから、自己受容は、お姉さんを亡くして自分は苦しいとまずはちゃんと認める。亡くした姉は返ってこないということを認める。諦める。お姉さんは決して返ってこないけどこのままずっと苦しいままで生きるの?って自分に問う。それは嫌だって、思うよ。思えるよ、きっと。ちゃんと自分が辛いことを認められれば、人間ずっとずっと辛いままではいられないよ。

じゃあ今、幸せになるために自分に何ができるかなって考えたとき、たぶん、ほんとにすぐそばに愛してくれる人がいるなら、その人たちのこと今度は真っ直ぐ見られるはずだよ。というか、絶対いる。愛されてることに気付けば、自分は愛し返したいと思うし、そのために自分で自分のことを愛せるようになれる。

自分のことを愛することはほんとに難しい。ほんとに。いやになる。でもそれでも周りが自分のことを愛してくれるから、自分は周りを愛せるし、いつか自分のことも愛せるようになるよ。

人を愛するのが怖いって、そんなことないはずで、裏切られるのが怖いって人の目を気にして自分が傷つくのを怖がる時点で、自分のことしか見てないんだよね。人を愛することは本質的に幸せなことのはずなんだよ。人を愛するのが怖いのは、あなたが自分の今を嫌いで認められてないからだ。

 

人から傷付けられるより、なんだかんだ人間、自分が自分のことを一番傷付けてるんじゃないかなって思う。自己受容できてない時点で、自分のことを自分で虐めて苦しんでるんだと思う。私もそうだった。自分を傷つける人が、人を愛せるはずがないし、それは愛ではないし、みんな苦しいだけだ。

息苦しい二人が、少しでも減ればいい。どうしようもないこともたくさんあるけど、生きるのに苦しい人間は見ていて辛いよ。みんな呆れて離れて行っちゃう。

結局、辛い生き方を選んでるのは自分自身ってことに気付いて欲しい。

人間、どんな瞬間からでも今から幸せに生きたいと思えば、生きられるはずなのだから。

 

伝えたいことのタイミング

最近ブログに書くほど苦しむことがないので、なんとなくここがおざなりになってたし、ここまで書きながらやっぱり苦しかったりもやもやした時にここに書きにきているのだなと思った。楽しいこと書いて生きたいね。

でも、継続しなきゃ!っていう義務感で運営してるわけでもないので、なんとなくつらつらと書きたくて来ました。ここに書くことがない方が健康体なのかも。でもやっぱり書きたいなって時はなんかもやもやしてるから書きに来てるのかもしれないね。

 

フットワークがアホみたいに軽いことは自覚してるけど、いつでも何かのために動けるように、余裕持って生きようとしてるのはある。いつでも選択肢が広がって色々選べるように、一つだけの行き止まりに追い詰められないように。

都合がいいっていうか、都合のつく人間でありたい。何が起こるかわからない時にそのチャンスを逃したくないし、いつ起こるかわからない運命の瞬間のための確率論をあげるような、地道な賭け事が好きだ。劇的なドラマは日常の延長線上にあるのかもしれないって思う。

 

周りの目を気にしたり、どうせ自分はダメなんだって言ったりする人ほど、結局自分のことしか考えてなくて、周りを見てない視野狭窄人間なんだな〜って、周りを見たりとか昔の自分を思い出してそう思う。

周りをある程度見て大切にした方が、結局は自分も生きやすくて周りも大切にできるんだなってすごく感じるし、それがチャンスの種を蒔くことに繋がるから、人と話すのがすごく楽しい。人との繋がりをいつだって何より大切にしたい。

 

誰かに何かを伝えたいとき、それはダメだよって言うんじゃなくてこうした方がいいんじゃない?とか選択肢を撒くようにしたいし、その方がこっちも怒らなくて済むから付き合いが楽になった。

関係性としてあまり変わらない気がしてるけど、でもやっぱり期待はしてしまうし、なんとなく、擦り合わせのようなものが生まれてる気もするし、それでも諦められないばかなままだから、このまま突き進んでいいかなって思った。今が苦しいなら今、伝える方が楽だ。どうせ、つらいままなのならば。

ずっとずっと死にたかった自分が、生きてみたいなって思ったきっかけが、とりあえずは目の前にいる限り、その人と関わることで自分が幸せな気持ちになれるなら、今は最大限幸せになりたいよ。

自分のエゴで自分が幸せな気持ちになりたい。そのために最大限やりたいことやるし言いたいことは言う。返ってこなくて悲しいけどそれでも返って来てほしいと思って繰り返す。それだけだなあって。

 

どうしても伝えたいことがあって、それを言うタイミングをなんとなく逃したまま、まだずっといる。いつか伝えられたらいいなとほんとに思う。というか、伝えるし、伝えられる気がするかな。

伝える!って思って伝えるんじゃなくて、どこかの些細な一瞬を掴むために、ただひたすら選択肢を増やして待って、見極めたいと思う。伝えたいと思って伝えようとがんばりたい。責任なんていらないし取らなくていいんだよ。それだけ言いたい。覚えていられるかな。忘れないといいな。

それまではとりあえず側にいたい。

今のあなたを見ていない

人間「変わりたい」って思ってもそんなすぐにハイ!変わった!って変われないんだよねってことは、私もそして周りを見てても、改めて実感してる。でも、変わりたいってもがくことが大切だ。変化を恐れないことが、人間を成長させるし、現状で満足しない向上心、それがある限り人は強く楽しく生きていける。

 

私自身、良い方向に変わってるぞ〜〜!ってことは、それこそちょうど一年くらい前に気付いたんだけど、そこからも、もがいて苦しくて諦められなくて、ってことを今日まで繰り返しててやっぱりそれが吐きそうなほど辛くて……っていうのは、この軌跡を見てもらえればなんとなくわかると思います。

私もここに書いてるからこそ忘れないで覚えていられる。過ぎてしまった出来るようになったことは当たり前になっちゃうけど、ここにこうやって自分の弱さを書いてあるからこの当時の自分ダメダメじゃんって、確かめられる。忘れない。そういうチラ裏でいい。自分の人生においてのターニングポイントの色々がここには書いてあると思う。

 

やっぱり、自信が持てなかった。

誰かの特別になれる自信は未だにない。目の前の大好きな人に対して、私じゃなくていいんじゃないか、この人にはもっと他に良い人がいるんじゃないか。だって私のこと選んでくれないから。私はこんなちっぽけな無力な人間だし、目の前の人、一人救えないし、結局はあなたにとってただの他人だし、私が劣ってるとかそういうことを抜きにしても、この人にとっての特別は私ではないのだと絶望しながら過ごしていた。それでも中途半端に関わりをやめられなくて、縋るように関わっていたら「固執や依存してるのはお前の方だ」と言われた。否定したかったけどその通りだと感じた。未だにその言葉が呪いみたいにくっついてる。固執が悪だと言われてから、それでも特別に好かれたいよって続けられる強さは、私にはなかった。

 

その人には大切な人をいれる枠がなくて、それこそ、友達とか恋人とかそういう大切な人をつくるという発想そのものがない。はたから見てて家庭事情とか本人のこととかも含めて、色んな意味で一人で生きていけないように見えるのに、というかそもそも一人で生きていける人間なんて存在しないと思ってるのに、一人で生きていきたがってて。

だからこそ、とりあえず大切な人をいれる枠をつくりたい。友達でも恋人でもなんでもいいから。その枠の中に、できたら入りたいけど、自分は最悪入れなくても良いからって思ってた。

 

私の最近に当てはめると、じゃあ枠ってなんだ?って思ってもいて。それこそ最近友達の彼氏とか彼女とかとすごく仲良くなってしまって、これは友達という枠とは違うけど、人と人の関係性として確かに情は存在していて。これを友達って枠に押し込むのは違うし、押し込める必要もないわけであって。

なのに私は一番大切にしたい人のこと、頑張って友達とか恋人とかそういう枠に無理やり押し込めようとしてて、どちらにもなれなくて押し込めきれなくて苦しんでた。

そもそも、そうやって、枠を作っちゃったらそこに何かを押し込めて埋めない限り、その人は満たされないから、それこそ規定の幸せの押し付けじゃん。結婚したら絶対幸せになれるとか、子どもは必ず産まなきゃならないとか、同性愛は異端だとか、独り身は寂しいとか。

 

「結局、友達とか恋人とかそういうのは結果でしかなくて、ただ寄り添うとか手を引くとかそういうことをしなきゃならないというか、出来るというか、したいと思ってるのは、あいつを好きでいるあなたしかいないんだよ」

そう友達に言われて、私は、あなたのまだ誰も知らない未来を杞憂して怖がってて、今のあなたを見ていないんだ、って思い知らされた。

いつか誰かが、じゃなくて、今のあの人の足りないところを足りないことだと気付いてて、今なんとかしたいと思ってるのは私しかいないのだと。それはなんかもうすごく、ここまでの関わりであいつの周りに人があまりにもいないってことで思い知らされたし、私が諦められないのも、ここまであの人のことを知ってしまったのも、私にとってあいつが運命の人だったってそんな馬鹿なことじゃなくて、私が強く強く想っていたからだ、ということだけだった。

私にあいつに見合う資格はないと思い続けてきたけど、資格なんていらなくて、私がこうやってあいつのことを知っていて気に掛けていて想い続けているこのことが、すでに理由になるのだと。私があいつに関わる今までが、こうやって手を引く理由になるのだと。権利とか資格なんていらない。だって知ってるから。もっと知りたいと思ってるから。それだけで関わることは十分なのだと。

友達が言っていた。「責任感や義務感で動いてるならそれは違うと思うけど、そうじゃなくて好きだからで動くのなら、もう仕方がないんじゃないの」

義務感なんてない。好きだからやってるだけだ。

 

枠とか結果とかあいつの将来の全部とか、なんもわかんなくてそんなの私にもあいつにも神様にも誰にも分からなくて、ただ好きで関わりたいから。それでなんとなく良くない方向に突き進んでるのが見えてるから、私は、やっぱりこっちにきてよって手を引きたいと思った。

友達と歯医者で例えをしてたんだけど、それこそ虫歯になって歯医者に行かなくちゃならない人がいるとする。私は、虫歯だとしても本人が歯医者に行きたくないならそれはもう仕方がないんじゃない?って考え方で、でもそれはダメだって11月ごろに気付いて、そこから「虫歯だから歯医者に行かなきゃダメだよ!!」って色々言ってたんだけど伝わらなかった。そもそも、本人が虫歯ってことに気づいてないとか、そもそも歯医者の場所を知らないってこにようやく気づいた。だから、私がいますべきことは、歯医者に行くように手を引くことなのかな。

何かをダメだっていっても、そもそもの前提がないから伝わらなくて、私も説教がしたいわけじゃないから、そこで喧嘩になって伝わらなくてしんどかった。色々用意して考えて伝えたいって思ってたこと全部ダメダメになって泣いた。違う。そうじゃない。伝えたいけど怒りたいわけじゃない。是正したいわけじゃない。私もあなたも正しくなんてない。正しさなんてどうだっていい。私はね、手を引きたい。あなたの将来とかどうでもいいから、今の私はあなたとわかりあいたい。その結果に枠がついてこなくても。友達や恋人の枠なんていらない。

「ねえ、こうした方が楽なんじゃないの。どうかな」私はなんとなくその道しるべを知っている。皮肉だけどその幸せになれる生き方に気づけたのは、あなたを好きになったからだ。

 

結局、私も怖がって今のあなたに向き合えてなかったのだ。名前なんていらない。区分なんてしなくてもいい。未来なんてなくてもいい。

その辺のめんどくさいこと全部取っ払っても、私は人が好きだから、結局あなたに関わることをやめられないと思うよ。というかやめない。

私じゃないとダメだなんて思えない。でも、私が今あなたに関わり続けたいのは、あなたのことをずっと見て考えてここまで関わってきたからだ。ここまで関わってきたから、私はなんとかしたいと思ってしまった。

「何ができるか」を思い悩むより、『できることをどうやって出し切れるか、活かすか』を考えてみた方が得策な気がします。
できることしかできないし、できないことはできないし。

恩師からもこう言われた。それでいいのだと思った。あなたにとって私は何ができるか、じゃなくて、今できる私をどうやって生かすか、ってことを考えていきたい。

なんでこうならないの、じゃなくて、どうやったら手を引けるのか、優しい手の引き方を考えたい。

あんな絶望的なほど閉鎖的な人に関わって変わってほしいと願う私の勇気は、私が諦めずにあいつに関わってきた今までが全部証明してるよ。自信なんかいらない。あいつのことたくさん知っちゃった私だからそうしたいと思ってるんでしょ。

それだけで、十分だよ。

春休みが死んで春が生まれる。

春休みが死にかけている。

想い出で色付けられるゲームこそ、名作と言えるんじゃないだろうか。 - 人間蘇生だモラトリアム

この記事を書いたのが、春休みが産まれてすぐだったので、丸二ヶ月ちょいの、ながいながい強制力も何もない空っぽの時間の中のくせに、なんかあほみたいに、いろんなことがあった気がする。

大学があって日常が回っている間は、そりゃ仕方なしにも人に会うから、人間関係も多少変わっていくのは仕方がない。だけど、硬直しがちな茫洋とした大学の春休みっていう所謂「人生の春休み」なのに、すごく人が集まって、人を集めて、ずっと人と人の間を回っていた。暇じゃないの?実家に帰らないの?って友達に言われたんだけど何一つ暇じゃなかった。びっくりした。

自分より二つ上の有名私大卒の従姉妹が「大学生の人間関係なんて、所詮うすっぺらくて軽いものだよ」って言ったのを、嘘だったんだな、いや、それは多分、彼女にとっては真実で、自分にとっては、そんなことはないということを身を以て実感した。結局、小中高専門大社会人老後を楽しめるかどうかなんて個人の主観と環境でしかない。人それぞれ違うのは当たり前なのに、大学生への偏見を当時大学生だった従姉妹に投げかけられたことを思い出した。それは彼女の経験則だ。

 

スケジュール帳を眺めて、富士山新潟群馬沖縄と飛び回りめっちゃ旅をした2月と、暇だと思い込んでたのに人間を飛び回っては寝込んでた3月のことを見て、ほんと自由に生きてるなと思い返す。3月には鎌倉と京都にも行った。

積みゲーも積み本も全然片付かなかった。もっと上手く時間を使えば出来たんだろうけど、時間を人間と関わることに割いていた。人間に割いて、そして凹んで寝込んでゲームができなかった。ばかだなあ。

 

やっぱり人間が好きで、改めて人間が好きになった春休みだった。

しんどいことをここに書いたり、いろんな人と話したり、その闇雲で破茶滅茶で我武者羅な自己開示が、結局人の、なにかよくわかんないものを動かし、返ってくるとても素敵で大切な経験をたくさんさせてもらいました。

 

結局、人は言わなきゃわからないのだ。

察することや空気を読む日本人特有の美徳は全然好きじゃなくて、やっぱ話してそれでわかりあおうとした方が早いし誤解も少ないし、後悔もないよ。

人はわかりあえないけど、わかりあおうとする生き物なのだし、わかりあえないからってわかりあおうとすることを放棄してはならないのだと思う。わかりあえた結果なんてどうでもいいし、というか何を以てわかりあえたと判断できる尺度など存在しないから、わかりあおうとする過程や態度に意味が生まれる気がする。

 

傷つきたくない、なんてどうして、傷付かない人生なんて存在するのか?と思う。

傷付くことを恐れて何もしないより、傷付いたあとにその痛みを言い訳にしない生き方を身に付ける方が自分はずっとずっと大切だと感じてる。だって傷付くことなんてすごく理不尽に訪れるのだから。ある日突然、受験に落ちたり、最愛の人が白血病になったり、両親が離婚したり、家が全部津波に流されたり!たくさん!なんでそうなったかって理由より、何ができるかを考えて動いた方が建設的だと思っている。

より速く適切に学べる人、その理由:ほめ方の研究|WIRED.jp

傷付く=失敗の話だけど最近こんな記事も読んで、そうなのかなあとも思った。根性論だけど、やっぱり実験結果としても存在してる。

 

人と分かり合えなくて一度の失敗で諦めてしまってその痛みを言い訳にずっと、トラウマにできてしまう、胸の痛みを抱え続けられる方が、自分はとてつもなく、強いと感じる。

そうしたら、そいつには、お前は強すぎるよって言われた。でもあなたたちには私が強く映るけれど、私はあなたたちが強く見える。

強い方が偉いわけじゃないし、そもそも何を以て強いのかもわからないから、強いとか弱いとかに意味なんてないのだ。

 

自分も極力傷付きたくない人間だったのに、いつからこうなったのか全然覚えてない。でもやらずの後悔より、やってからの後悔の方がましだから、悩んだ時は突っ走ってしまう。

傷付いて失敗してということを春休みもよくやった。人間相手に最適解なんて繰り出せなかった。寝込んだ。めっ〜〜ちゃ寝込んで二度と挑戦なんてしないと泣いたが、今、正直その痛みを忘れてしまった。ばかなのかもしれない。

でも傷ついた失敗なんて所詮その程度なんだと思ったし、じゃあもう大したことないじゃんって。あと確かに傷付いたんだけど、なんかその失敗、別に失敗じゃなかったみたいで、とてもいい方向に転がってる。だから失敗って、そもそもなんだよって感じでもある。傷付いても成功か?失敗や成功って何?じゃあもうとりあえずやってみようよ。

 

自分で色んなことを選択して生きているから、その分、たくさんの責任はついて回るんだけど、それで得られる自由がとても楽しい。空っぽの二ヶ月半の春休みで、自分から色んなことを動いてみた。すごく楽しかったし、全てに意味があったような気がする。

 

新学期、なんか色々またたくさん動いて楽しく過ごしたいと思う。とりあえず11月までにコミ……と事例検討をしたいっていう今年度の目標をここに打ち立てておくね。

さよなら春休み、よろしく新学期。