人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

愛の受け皿

私は、私のことをめちゃくちゃ幸せだなって今、心から思っている。

第二の故郷だなあっていうところに帰って、みんな揃ってみんなに揉みくちゃにされてぎゅっと愛されて笑って帰って来た。

こんなにもたくさんの、ほんとにたくさんの愛をもらって、それを愛だと認識できて受け取れるだけの受け皿が自分に存在していることは、胸を張って自分で自分のことをめちゃくちゃ褒めてあげたいと思う。

与えることも愛だと思うし、愛を受け取れることも愛なのだと思う。愛することと愛されることに怯えることをやめられてよかった。

自分にそういう受け皿がないと、どんなにたくさんの愛をもらっても気付かずに取り零してし、愛は割れた皿の隙間から全て流れてしまうのかもしれない。自分に必死で、自分を保つのに必死で、心に余裕がないときは、家族も友達も邪魔な存在になってしまう。かつて、私は自分を心配する全ての存在が憎くなってしまうことがあった。

 

元々、私は私のことをすごく恵まれた人間だと思っていたし、それは自他共に事実としてあって、愛されて幸せに過ごしていた。愛を受け止める受け皿はちゃんとつくられていて、たくさんの人に囲まれていたと思う。その中でも本当に一番受け皿から並々と愛を注いで、愛を注がれていた存在があって、それが実の妹だった。

妹が死んで、世界で一番望むことは妹が隣にいることだけなのにどうしても誰も代わりにもならなくて、私は妹から注がれる愛がなくなったからこの受け皿に意味なんてないのだと、叩き割ったのだ。粉々に割れた受け皿を使って、破片で人を傷付けまくった。何よりも私のことを傷付けていたのは私自身だった。外から注がれる愛がひたすらに何もかも鬱陶しかった。

 

そうやって人生に意味なんて一つも見出してなかったのに、やっぱりまた歩き出したのも妹が遺した問いで、未だに答えは出ないでいる。

「教師と学校は妹を救ったのだろうか」

だから、本当は先生になりたかったわけじゃなくて、ただ向き合って教職が学びたかった。そして私はずっと教職に懐疑的だった。

大学で学んでみて、人が好きだし、人が好きな人が好きだと感じた。ただの遊びも全部学問に結び付いた。生き方と教職は切り離せない。教職を志す人は素敵な人ばかりだった。やけくそで飛び込んだ先で、人を失って絶望した私を救ったのもまた、人だった。

 

何があってもずっと私は人のことが好きだったみたいで、人と関わることが好きで、人のせいで傷付く人が好きで、人のおかげで救われる人が好きだった。

愛したら失ったときに傷付くリスクを知って背負って、それによってどんなにしんどくてくるしくて死にたくなると知っていても、もう一度人を愛してみたいと思った。それでもやっぱり生きたいと思えたんだよ。

何が起こるかわかんないし、当たり前の明日もまた今度ね、も来ないことがあることをまざまざと思い知った。明日死ぬかもしれないし、今度も二度と来ないかもしれないことに、すごく心が痛くて泣きたくなったけど、そう思えるくらい大切に想えているんだなって知ることができた。

だから、またねと言いながら手を振った。

 

自分に真面目でありたいと思う。人に何かを教えたり伝えたりするために、まずは自分がちゃんと真っ直ぐ向き合っていたい。自分が向き合えてないくせに、人に何かを高慢垂れることなんてできない。だからお墓に行きたかったし、英語も始めたいなって思う。

すぱーんと飛び出して行く前に、ヒーローでもない私に何ができるんだろうって必死に考えていたけど、何もかも誰一人正しくもないし間違ってもいないから、ちゃんとそれだけ伝えられればいいと思っていた。人に向き合うことしかできないし、それだけはできる。

ずっとお守りみたいに頭の中をよぎっていた言葉と人がいて、何だか人の言葉を借りて動いてる気がした。それでも、その言葉を借りたことも私の選択だ。人に向き合って私が獲得した私の価値観と選択だ。

結局、自分のことを決めるのも自分自身で、自分の考え方を持つことが大切だ、とその人は繰り返し言うから。私だってそう思うし、ずっとずっとそれができなかったのに最近そうできるようになってきた。

だからこそ、その上で人が自分の選択ができるようになるため、できる限り側で寄り添うようなことを人に対してしたいとその人に伝えたい。人間そんなすぐに自分の意見を言えるわけじゃないから。正しさも間違いも決めたくない。中途半端ってわけじゃなくてたくさんの選択肢だけ持っておく。そのどれも選んでいいんだよ、って提示する。相手のことみんな肯定して、その上で話し合って決めたらいいんだよ。

 

たぶん、一生、君のことを思い出すのだと思う。

私が今回みたいに迷ったときに思い出すのは、今までに投げられた言葉と、貫いていたその行動と、傷付けられた想い出と、向き合うことで私が変わって救われたことなんだと思う。

自分が向き合えていないくせに、君のこと救えやなんてしなかったから、向き合いたかった。したら自分のこと気付いたら救えちゃっていたし、やっぱり私は今でも、救われ続けているのだと思う。関わるたびに救われているんだと思う。

私は私が救われた瞬間を思い出して、迷うたびにここに戻って来て、それによって生きていこうと思うから、やっぱりずっとずっと思い出すことになるんだと思うよ。私が前に進むたびに思い返す言葉は、いつも君の言葉をどこかで少し借りている。

それを心から誇りに思うよ。愛されていることを改めて知ったし、愛することは本当に楽しくて幸せなことだと思う。ありがとう。

ほんとにみんなも、心からありがとうございました。

来ないかも知れない未来に向けて、またねと言えることに怖がれることが幸せなんだと思えたよ。

だから、またね。また会おうね。

ただ、今を生きることだけしかできないし、それだけはできる。

タイトルにこう書いてはみたけど、今を生きるってことほど難しいこともなくないですか。だけって。ほんとに実際過去も未来もなくてこの今一瞬を全力で生きることしか人はできないけど、それだけのことがこんなにも難しい。

自分は、周りや一般的な人よりも、きっとずっとフットワークは軽い方だし、会いたい人がいたらできる限り飛んでって会うみたいなことはよくしてるし、受けた感謝と恩だけは口に出して返して伝えるってことは、めちゃくちゃ意識的にやることをモットーにして、生きようとしてはいたんですけど。

それでも、やっぱりいつでも言えるよねって、一番大切な想いは日常に溶けちゃうんだなって思った。

生憎、私は、世界で一番大好きな人に大好きだよと伝えられる時間と猶予が存在していたので、その瞬間を離さずに捕まえられた。(ただその大好きだよで自分を縛ってしまって身動きが取れなくなっていたのも事実だが)それでも「伝えられなくて後悔した」ということにはならなかった。やらずの後悔より、やって後悔の方が自分を無駄に責めなくていいよね。やらずの後悔なら過去と可能性という変えられないものを責め続けてしまうけど、やっての後悔なら自分の未来を変えてまた挑戦し直せばいいだけだし。

そんなどうしようもなく後悔するような、やっての後悔ってあるか?とも思う。私も大学受験とか失敗して第一志望なんて全然入れなかったけど、だからって第一志望に挑戦したことを後悔はしてないし、そこでもがいて描いたことも今に活かせているから結局は過去に対する意味付けなのかもしれない。

 

最近ちょっとだけ、焦っていて、それは周りがすごく真っ直ぐ夢に対して準備を始めているからなんだけど。受験のために、面接練習とかがやっぱりあって「あなたはどういう教師になりたいのですか」ということを聞かれて答えなきゃならない。それはまあ、試験に受かればいいから、試験用に嘘を言えばいいのかもしれないし、どこまで本当かなんてたった少しの面接だけじゃ面接官にも教育委員会にも全部測れないのだと思う。それで足切りをされるこういう受験の制度が私はあんまり好きじゃない。人と向き合う仕事なのだから。

自分は教師になりたいし、でも、なるための心構えをやっぱりしっかり持ちたくて、今の時点で自分の進む道を、本当にやりたいことをはっきりさせておきたい。それがどうあがいてもこの夏と秋が終わらないと決められないから、終わるまでは、そういう教師になるための勉強はしないようにしようと決めている。

だから置いてかれるような気がして焦っているし、逆に私の先を走り出してるみんなも、その辺はもう考えなくて大丈夫なのかなって怖い。それっぽいことをそれらしくいって、受験のためにつくって、それで教師になるのかな。

自分の中から答えを作りたい。正しくなくていいけど、それこそ今時点での答えがいい。なんで教師になりたいかでも、どんな教師になりたいかでもなくて、教師になってこれがしたいと思うことを見つけたい。社会のためとか子どものためとかじゃなくて、私は私のために教師になりたい。人と向き合って大切にして生きていきたいから、教師になりたい。

最近そう思えるようになった気がするし、ちょっと先の未来のことも、つまりは一年後の試験のこともとりあえず見ないふりをして、私は今を生きていたい。今を生きることしか、目の前の人にしか一生懸命になれないけど、それだけはできる。

私は私に正直でありたいよ。

 

やりたいことをやりたくて最近猛烈にたくさんの文章を書き続けているのですが、なんか交互にラブレターを書いてるみたいで気恥ずかしくなってきました。頑張ります。

散文

ブログほどまで成形できずに、一部は昇華できてたのかもしれないけど、途方も無いほどのたくさんの覚え書きとテキストが、iPhoneのメモ帳から出てきた。このまま置いといても見返さないし、消すにはちょっと惜しい言葉達だったので、ならばもうぐちゃぐちゃのままここにまとめてしまおうと思った。

脈絡はないけどいつも書いてるみたいなことばかりな気がします。推敲はもう個人名と句読点以外はそんなにしませんでした。もがいた跡でしかないし、わかってんのに実践できてないことの多さだよ。

 

1.
昨日友達に言われて、すっごいことに気づいたんだけど、学校外で遊ばないと人って仲良くならないんだねっていうか、学校外っていうか授業外で遊ばないと友達になれないんだねって思った。
友達だから授業外で遊ぶのかと思ってたけど、授業外で遊ぶから友達なんだわって思った。
今までの人生において、クラス内でしか顔を合わせない、話すけどまあ授業でしか関わらないっていう人は私の中だと友達じゃないし、逆に自分が友達だと思う人は絶対どこかで腹割って話してたりする。
学校や授業という拘束された時間の中以外で遊ぶことによって信頼感が生まれるから、あくまでも「仲のいいクラスを作りましょう」ってどんなに学級目標に掲げてもそんなの全然友達ではないんだな。
「だからこそ、みんなリアルの友達と授業外で会話するためにTwitterとかのツールを使うわけだし、貴方はそれがいらないからやらないんでしょ」って言われて目から鱗すぎた。
みんなそんな、猪突猛進して腹割って話さないから人間関係としてギブアンドテイクや利害関係で薄いわけだし、だからこそ大学ではサークルに入るわけだしTwitterInstagramをするんでしょって言われてああああってなった。
それに比べて、強制力のない仲の良さ、自主的なコミュニティとか、そういうものは本当に楽しいって私が実感してて思う。
それこそ中学生女子のまとまってトイレに行こうぜとかはあんなの学級内での立ち位置という強制力が働いたものだから友達ではないんだよ。
だからウェイの遊びに行く!!っていう集団は クラス単位でとかサークル単位で遊ぼうぜって言い続けて遊んでいる限りその強制的コミュニティから全く抜け出せてないから全然人間的距離としては友達でもなんでもない。
私が高校のとき生徒会に入っても生徒会で全然仲良くなれなかった理由もそこにあるんだと思う。強制力が働いた集団のまま仲良くなろうとしてたから、あと仕事という強制力からどうしても抜け出せなかった。
集団単位、それこそ学校、職場、習い事、部活動、サークル、バイト先、ママ友というある一種の目的が存在している集団において、その集まるという強制力から抜け出さない限り友達にはならない。逆に言えばそこから抜け出せてしまえば友達になるんだと思う。集団はきっかけになるけど直接友達になるわけじゃない。
学校で浮かない程度にそこそこの付き合いを続けられればいいな、わざわざ外行って遊ぶ意味も感じないなって思っている相手は友達ではないんですよ。
どんなに休み時間に同じ場を共有してご飯とか食べてても、やっぱりそこがなんとなくふわふわとしていたら、それはやはりその目の前の人間に対して必然性は生まれてない。

じゃあ家族に強制力はあるか?という問いは、私はあると思う。
家族というコミュニティに対して、どこかしら強制力を感じた時点でもうそこから離脱するかそれかもう一人の人間として向き合うしかないよね。私は抜け出した上でほぼ友人という形で両親と向き合えたのかな。

というかやっぱりこれは体験談としてそう思うけど、本気で相手に向き合って友達になりたい この人と仲良くなりたいって思ったら向こうも熱量としては同じだけのものを返してくれるし 向こうが腹割ってくれないと思うときはまずこっちが割ってないからなんだよね。
割ってくれるのを待ってるとかどっちが先とかじゃなくて、両方が割らないとダメだ。
こっちが本気で腹割ったら絶対向こうが心開くかどうかはわからないけど、もし拒絶されても全力で噛み付いてくるし熱量としては同じなんだよ。たまに噛みつかれるけど別に噛み付かれてから始まることもある。

一人は傷付かないしそりゃ楽なんだけど、じゃあもうそう言うなら、すべての人間関係を望むのはやめてくれとは思う。

一人で生きていくって言いながら、それでも多少はコミュニケーション取ろうとしてる人のことみんな矛盾してやがるぜって思ってる。強制力の働く下でのなあなあの付き合いもそこそこ楽しいし、それが楽だなあって思ってるのは事実だけど、ただ単にその強制力の先の友達を知らないだけなんじゃないかな。

その先に一歩踏み出したことないくせに面倒くさいとかリスクが高すぎるとか嫌だとか無理とか言うなよ。やったこともないくせに!!
読んでいない本ややったことのないゲームを批判されるのが私は一番気にくわないし、そういうことを対人関係においてやってるんだと思ってしまうんだよ。

 

2.

多様性を認めることと、自分の信念を持つことは共存できる。
他者攻撃はだめだ。

完璧になろうとしなくていいのに。

正しい人間であろうとするな。

自分の意思を持つこと、正しいと思わないこと。

最近私がひたすら考えてるテーマは「変わりたいと思う自己選択」と「正しさに囚われることは人を傷付ける」についてです。
妹執着について変えようとかじゃなくて囚われることを選択していた。
助け合うんじゃなくて支え合いたい。
影響し合う、共有し合う。

不当な扱いをされてることが許せなかった。だから好きになった。

 

3.

選択とは、一生その覚悟をするわけじゃなくて、その時その選択をしたことを忘れず後悔しないことである。
壁じゃなくて、芯と柱。

結婚に絶望感があるのか、そもそも特定の人を好きになることができないのか、性的なものに嫌悪感があるのか、一人で生きていくことに確固たる信念があるとか、どれなのかいまいちわかってない。全部かなあ。
でも今までの言い分からすると、二人で生きていくよりは一人の方が自由わずらしくないしそれだけの強さがあるって柱を立ててるイメージかな。

柱を持ってる君が何よりも好きだし、でもそれと同じくらい心配なだけだった。
あなたはあなたを傷つけることでそれで安定してるのかもしれない。
私が心配するくらいであなたの脅威全てから守れるわけじゃない。でもそれでも、細かい傷にすら傷つかなくて済む選択肢をどうか。

変えたいわけでも、
変えるように仕向けたいわけでも、
働きかけたいわけでもなくて、
関わり続けたい。

人と人が対面してる時点でお互いが影響しあうということって当たり前だから、教師と子どもがいたときに、子どもだけ変えるって考え方が私はそんなに好きじゃない。
人をどこまでも愛せる権利がほしい。

そばにいたいけど手を煩わせたくない。
親の人生は親の人生であってわたしの人生ではないから。

失敗経験から学んで「じゃあ今度はどうやったら失敗しなくて済むんだろう?」って考えて試行錯誤するのが反省で 「一度失敗したからじゃあもう二度とやらない」って決めつけてしまうものほどの怖さもない。失敗してその時負った損より未来の可能性を潰し続けるのが怖い。

手を引ける存在になりたい。
経験は確かに大きな財産だけど、たった一度や二度の失敗で何がわかったのか。その経験でじゃあ残りの全ては危ないと決めつけてるだけなのではないだろうか。

失敗が怖いのは当たり前で、じゃあもう一人じゃ無理なら周りに助けてと言えば良い。周りにそんな人がいるかはわからないけど、少なくとも私は助けてって言われたら、他の全てを投げ捨てて駆けつけられる味方でありたい。私が好きで関わっている全ての人において。

 

4.

その人の人生と自分の人生がこの先重なって欲しいと思うことが恋愛。
その人の人生を見ていたいと思うことが友愛。

明確な名前が与えられているのが家族、明確な名前を与えたいと思うのが恋人。

愛のために努力してもそれに見合うものが返ってくるとは思わないから、じゃあいらないと思ってるんだと思うということらしいです。
そのために何かしら努力として得るべきならば そんな面倒くさいことしたくないし、必ずしもそれで愛が確約できないならやだって。

世界の最上位の幸せが結婚でないとしても、人と人との出会いは運命を変える可能性があるから諦めて欲しくない。
わたしはほんとに君たちに救われている。閉ざすようなことをしないでほしい。
やっぱり親が離婚経験あると結婚願望って消え失せるものなの? 愛が破れるなら最初からもう一人で生きて行こうと思うものなのかなあ。
なんというかほんといろんな価値観や立場や家庭環境の人に触れて生きてきたけど、結婚願望ない奴に対してそれをしろっていうのはマジで傲慢で余計なお世話であるわけじゃん?
結婚が人生においての最高的ゴールとは考えたくないわけなんですよ。それこそ一人で生きていくこと、それかシェアハウスという形とかも、もっと認められるべきだとも思うんだよね。
「本当にいらない 愛は必要ない」と本気で思ってるのか。それとも「努力のためのリスクが大きすぎるからそれを得て必ずしも報われないのなら最初から労力を割く気がない」のかどっち。
でも離婚した家庭を見てるからこそまたそれを繰り返す気なのか。それこそ逃げと諦めなんじゃないか。

「きっと愛されて育ってきたんだろうなあ」っていうし、多分そう他者に依存しあわないような環境下で生きてきたからこそ、自分を守る術をそういう形で確立させてるからこそ多分本当に生きていけるのだとは思う。
わたしとしては後悔しない生き方を選んでほしいし、だからこそ絶対に結婚はする!とも絶対に結婚はしない!と思い込みによって決めつけて欲しくないんだよねって早計だよとも思う。
永遠の愛を語るくせに探そうとする気を全くしてないし、もはや拒んでる。
それを溶かしてやろう!ってくらいの光属性にはなりきれない。
なんというか人と人との運命的な出会いってまじでかける時間でも努力とかでもなくて運命とちょっとの働きかけだと思うんだよ。ほんとに だからこそそこを遮断して最早絶対ありえないって思い込む自体でこう何かを取り逃がすというか……。

私が他者との関係を大切にして生きたがるのは ほんと2年前とかに本気で一人で妹の想い出だけ抱えて生きていこう、このまま指一本動かないまま先の展望もないまま、ああもう生きたくない呼吸だけしたい植物になりたいという地獄をみたから、たぶんその反動で人と関われることに嬉しくて仕方がない。

「人との関係に対して努力しようとは思わない。自分の楽しみだけは裏切らない」ってさ。
私は分かり合えた経験があるから、それを信じたがるし、彼らは分かり合えなかったものを見たからこそ壊れるそれを気にせずにはいられないってどっちもほんと経験に根付いてるから間違ってもないけど両方主観的すぎる。これを価値観というのかもしれない。
人との関わりによって確かにしんどいこともあるし私だって切り捨ててしまった人間関係たくさんあるけど、どうしようもなく人に執着してしんどくて、でもそれを救ったのもまた人だからなあ。

すべての人を切り捨ててしまったら いつかほんとにしんどい時に助けてもらえなくなる。大切にしてたら巡り巡って絶対帰ってくる。人は本当に一人じゃ生きていけないって、体験談の主観だけどさ。

めんどくさいのもあるけど、なんというかほんと人との絆って 努力とか時間量とかじゃなくてタイミングと運!だからこそ、なんかそこの出会いの戸口を閉めてはならない。維持の能力とかじゃなくてほんとに出会いの質なんだよ どっちかというと取捨選択?

なんか人との関わりにおけるめんどくささって めんどくさい人じゃなければほんと出会いの質の問題なんだよ。人の問題。むりな人はずっとむり。合う人はそんな維持に辛さを感じない。

愛ってそんな燃えるようなものじゃなくてなんか日常の中に少しずつあるようなものだよなあと思う。

脳みそが一つしかないから一人しか愛せない。

考えることが防衛本能なところもある。
理不尽な出来事に対してなんらかの理由付けをしないといられなかったというか。
やだーやだやだやだ!!ふざけんな!!!って言えなかったというか。

そこまで諦めることを強いられて思い込んでるというか。
運命なんて大層なこと言うけど、一緒にいて楽しいなあ、もっと一緒にいたいなあ……って思う出会いがあったって、ただそれだけの話なんですよ。
一緒にいるのが疲れるから一人の方がましって決めつけるのもわかるけど、全人類においてじゃあ人といると、必ず辛い思いをするって決めつけるのは早計すぎやしませんかって思うんです。
ずっと助けてって言いたかったけど、その前に一人で生きなきゃならなかったから甘え方もわからなかったし、この寂しいのが普通だと思ってたから一人でも実際生きていけるんだけど思ってた。

やっぱり人にトラウマは存在すると思う。
人にトラウマが存在するというよりは、そんなにも簡単に人は暗い過去を捨てて、未来の可能性を信じられない。

自分が他人に干渉されたくなかったと思ってた
思い込もうとしてた時期があったから仕方がないし、助けを求めるくらいなら一人で解決して生きてきたからこそ、世界が私に厳しかった。

って思うけど世界を厳しいと決めつけて助けを求められなかった私が悪いんだろうな。

私が君たちにあった時もそういう人間だったから、こう何回も色んな話をしていくうちに、すごく勝手に共感するとともに、ああそこまでは私はなりきれなかったなあと思って。
私は妹が死んでるから思い出だけではいきていけないってのもあるかもだけど そこまで一人で生きてく!!みたいなことをカッケーって思ったんだよ。今でも思う。もしも生きていたら、わたしも妹と暮らす人生を選んでいたかもしれない。

ただ二人の気持ち聞いたあとわたし、ずっとずっと悲しくて、同情とかじゃなくて、対面してる人間としてめちゃくちゃ悔しかったんだよ。

プライドかっこいいなあって思うけど それと同時にほんと死ぬほど悲しかったんだよ。
私ほんとに救われて、あの二人そんなつもりなかったけど私は私でほんとに楽しくて、妹と生きてたあれが人生の最上級だと思ってたんだけどそうでもなくて、ほんとこれは私の体験と実感だからなんだこいつって思うかもだけど、ほんと周り含めていろんな人にまた怒られたりしたんだけど。
でも、本当に人は世界で大事なもの作ってても他にも作れることわかったんだ。

光属性が正しくとも正論でも私はそうはなりきれない。どんなに無駄でも悪でも意地でも人の拘りをいらないって捨てられない。
だからこそ私は、それに拘ってることをかっこいいと思うけど同時に悲しくて寂しいと思う。

私は救われたし自分を構成する要素すべてにおいて感謝したいから。

 

5.

友達が家に来てゲームしてただただはしゃいでるって私にとって他には代え難いくらいの幸せなんだよな。それは友達が好きってわけじゃなくて、友達のポジションがかつて妹が担ってた部分で自分がどうしても補いたくて仕方がなかった部分だから。
でもこの友達対して永続性は感じないし、この生活もあともはや2年と少しで終わりが来るし、そういう意味での永続性と無邪気さを私はまた別の人に求めたがってるんだろうしな。
妹の代替を探し続けているのはずっと感じて悩んでたことだ。亡くなった人の代わりにはならないけどやっぱり今はもう無い同じような幸せを求めてしまうのは自然なことなんだと思う。

 

6.

夏と一緒にこの恋心も死ねばいいのにな。

私こんなめんどくさいし、どんくさいし、それこそこうやって一緒にいても心配ばっかしちゃうし。何か求めることも怖くてできないし、なにもあげられないし、
口回らないし、その分ほんとに考えることしかできないから。
こうやって無条件に承認することしかできない。

 

7.

ほんとに心配してるのもあるし、私の利己的な気持ちでもほんとに教師に向いてると思うし、尊敬してるから、そういう意味でどんな形でもどんな些細なことでも手伝いたい。
プライドが傷付かない程度に手伝いたいと思ってるし、もはやそれで単位落とされた方が心痛くなるから、頼ってっていうのも負担なのかもしれないけど、ほんと出来る限り尽力したいしさせて欲しい。

何かしてもらいたいわけじゃない。あなたのこと一番側で支えられる権利がほしい。
27歳以上生きる理由がなかった。
エンディングみたいで出来すぎた物語みたいで
そういうとこに共感してたよ。
43歳で死にたいなんて。
同情から始まった。
恋愛にかまけてるだけで世界は平和になる。
死者に執着なんてしなくて済むんだと。

わたしはわたしの人生を歩んでいいのか?

なるほど、このぽっかりした時間にずっと妹がいたのか。
何年経ってもやっぱり一番に伝えに行きたい人がいなくてそこがずっとぽっかり空いたままだって。

私ずっと人に頼ることが苦手で、抱えてるアレな事情も事情だったのもあって 中学時代話したことに対して、ほんとにごめんって罪悪感抱え続けてたんだよね。話してくれてありがとうって言われた気持ちが全く理解できなかった。
人に頼らないことは美徳じゃなくて弱点ってなるほどなあ。

 

8.
好きだった

ただ一緒にいたいし幸せになりたかった
片想いだからほんとにどんなことでも喜べたし
わたしのことをいらないことも好きだった

ほんとにほんとに好きだ

わたしの1番の願いが人の蘇生で それを願いつつ叶わないことへの理性と感情の葛藤のあまりに精神を壊したので そこから1番の願いを諦め続けて生きてきたのでなんか人に願っちゃいけないみたいな方程式があって 叶うかどうかは別として言う事に意味があるのだと思ったから

ずっとずっと死にたかったし将来的に絶対にあの時ほどの幸せなんて訪れないと思ってたけど
現実を見据えてリアリストな君をみたからどうしようもなくわたしは未来を信じたいと思った
君のこと考えて好きになったからわたしは過去に固執しなくなったしいろんな可能性を信じられたと思った

環境の主体に君がいなくとも 私は君を必要として 君がいるからこそただその存在にほんとにほんとに救われてだから大好きだということをどうしても伝えたかった
ほんとにありがとう
もしよかったらまたずっと仲良くしてください

多分これからもわたしは君について悩み続けるしいつかそうやって別れがあるのかもしれない
それでもこうやってとりあえず悩み続けた一年が無駄にはなってないから何にもならないわけじゃないと思う

だから 自分の可能性を未来の可能性を信じて欲しい
私じゃなくても私がもしダメでも選択肢を少しでもいいから広げられたらいいと思う

 

9.
 I wanted to grow up together with you by your side.

  私はあなたのそばで一緒に成長したかった。 
I want to grow together with him.

私は彼と一緒に成長して行きたい。 

 

10.

何であの環境が気に入らなかったの?

私のこと傷付けると思って話さなかったんだね。私はそう思わなかったからびっくりした。
話さないとわからないことがたくさんあるのだと思った。

羨ましいと思った。
そこまでかけられて大切にできる家族がいて、そのための行動力も信頼感もある君のことが、当たり前の家族を当たり前の様に大切にできることが。
私もやりたかったしやってたことだ。当時中学生だったしどうしてもやれる範囲は限られていたけど病院には入れるのって15歳からだからきょうだいでも病院にも入れないし、だから土日がぜんぶお見舞いで潰れてもまともに母親も父親も家に帰らなくてもそれがあるべき姿だと思ってたし、骨髄移植のドナーのリスクも考えずにあげて助かるのなら何も怖くなかった。死んでほしくなかったから。
妹は私と一緒に幸せに生きて欲しかったし私は何よりもそれを優先したかったからそれが私の幸せだった。
それと同時に誰かに助けてほしいとずっと思ってた。
私も家族が大好きでたまらなかったけど それでもどうしても無力感とやりきれなさがあって散々逃げたことがあってそれこそあの部屋も荒らしてぜんぶめちゃくちゃにした。

私も家族が大切だから考えてることや家族にかける思いを否定できなかったし言えなかった 。
だからそれがお前はお前のことをわかっていないって言われたのもそうだし、何がが言いたいのかわからないって言われたことなんだったと思う。
どんな人生送ってきたかはそりゃ全部は知らないけど断片的に聞く限り結構しんどそうだけど その中で自分を見失わずにそのまま、人間が好きなままなんだね。

家族のことある程度少しくらい逃げてもいいからもっと他の大切な場所を作ったほうがいいと思った。
そのための場所になれたらいいとずっと君に対して働きかけてた。

どうでもいいと思わないでほしい。
家族も大切にしていいから、誰か、じゃない 他の誰でもない私のことも大切にしてほしい。
私を大切にすることで自分のこともっと大切にしてほしい。
これからもっと何かがあればいいと思った。

 

11.

何かを選び一つのこと選択し続けることは一途とか初志貫徹とか聞こえはいいけど他の可能性を潰し続けることでもあるんだなあ。

明確にどんな教師になりたいかを考えてないから楽な方に逃げていくんじゃないの。

教師なんかやめちゃえば。

柱や芯や軸があるって、結局トラウマになってるだけなんじゃないの。
私だけの価値ってなんだろう。

遠い未来の誰かが。

助けてくれって言われないと何もしない教師ってどうなの?
だから私はあなたに関わり続けて何とかしたいと思えるようになった。ここまで来た。

そんなに教師になりたいなら どうして真面目にやらないの?
嘘は自己暗示だよ。

 

12.

勝ち負けや正誤じゃない。

選択肢の提示が大切。

愛するとは何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。

 

13.

『夜と霧』

真っ当に苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最後の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。
強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
およそ生きることに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、私の心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だったとしたら収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

絶対的な未来喪失を骨身に染みて味わったのだ。それは、あたかも死者が人生を過去のものと見るように、その人の人生のすべてが過去のものになったとの見方を強いるのだ。

現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえついには節操を失い、墜落することにつながった。なにしろ「目的なんてない」からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容所生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受け止めず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。「強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、私の真価を発揮できるときがくる、と信じていた」けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。

わたしたちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむことと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きることのの意味だった。この意味を求めて、私たちはもがいていた。

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

わたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない、とも言った。なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、次の瞬間自分になにが起こるかさえわからないからだ。

人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある、この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬことを、苦と死をふくむのだ、とわたしは語った。

 

14.

わたしは日々少しずつ伝えることしかできない。

伝えるときにびしっと何かを伝えられないから。

文字コミュニケーションが苦手なんじゃなくて、人に対して真摯でないだけだ。話し言葉が好きだからって文字がいらない理由にはならない。
救われたいと幸せになりたいと思ってたけど、幸せになってたんだよね。だから幸せにしたかったんだけど。ここまでが今までの私で、だからこれからは幸せにしてくださいって思う。

変わってて変わってまた変わって戻ってきたような気がする。
あなたよりあなたのこと考えてた気はするけど、向き合ってなんてなかったから。

人と向き合うってどういうことなんだろう。人は死んだらどこに行くのだろう。
向き合うって、私の中にいること。

聞いて、拾ってくれると委ねて信じて話そうか。

 

抽象を取り払って、今、目の前の人をみること。

ニュース見てからどこか大分気分が暗くて、さっきまで気絶してたのでやっぱりトラウマは改善されてないのか〜っていうか乗り越えられるものでもないよなと思いました。自分はこうやって亡くなっていく人にたくさんたくさん触れ合っていくかもしれない仕事に就きたいと思っているので、この先の進路でいいのか、こんな遠くの会ったこともない人のニュースで自分のことがフラッシュバックして傷付いてるなら余計無理じゃないのか、もっと見ないふりして生きていけるはずだぞ、とぐるぐるぐるぐるしていた。

 

美しい話ですよね。本人が美しい話とか可哀想だと思わないで欲しいと願っていたことも含めて本当に皮肉ながら美しい話ですよね。「愛しています。」で人生の幕を下ろせる、死者がここまで気高く一瞬一瞬を強く生ききったことに比べて、遺される人たちのなんて弱いことか。

生前の死者が美しいほど、気高く強く生きたほど、本当に皮肉ながらその美しい思い出がどこまでも呪いになって蝕むことを、痛いほど、それこそ死にたいほど知っている。でもあんなに生きようとしていた死者に顔向けできないから死ねなくて、それでもあなたのいない世界は色がなくて死にたいと願ってしまう。美しい想い出に、私だって、ほんの1日だけでいいから帰りたい。そうしたらこの先それを抱えて生きていけるような気がする。

ただ、想い出は美しいけど、自分は、その想い出を抱えて呪いのままそれでも生きたいと思って、生きる人間の方がずっとずっと美しいと思っています。強さが美しいなあって。

だから今は悲しんでいい、現世のことは地獄としか感じられないかもしれない。それでもやっぱり過去を取り戻したいって思いは消えなくてもいいから、それと同時に、未来を生きてみたいよって思える気持ちが育まれたとき、それが人間の強さなんじゃないかな。

妹の葬式の時、「これからがつらいんだよ」って言ってくれた妹の友達のお父さんがいて、そのお父さんも昔、家族を亡くしていて、「よくがんばったね」とか「つらいよね」って他の人みたいに言わなかったその意味がやっとわかった。きっとその人も今でもつらいまま、それでも、今を生きてみたいと思ったから、そうやって私に言葉をかけることができたんだなって、私も今なら同じように思うし、声をかけたいと思う。ニュースを見ながらそんなことを考えていた。

 

抽象的なことって人間理解に遠いねってすごく最近感じる。というか、自分がずっと考えてたことの全部の悩みは、人を真っ直ぐ見ることで解決するのだということに気付いた。

「彼氏」が欲しい。

「彼女」はいらない。

「障害者」は生きる価値がないから殺した。

自分だけじゃなくて「他のみんな」も傷付くよ。

うちの学級の「子ども」は荒れてるなあ。

「家族」だから離れられない。

「誰」もわかってくれない。

「全人類」とわかり合う気がない。

「社会」の中で私は価値がない。

「世界」平和を目指したい。

 

括弧で括られたたくさんの抽象は、もっともらしいことを言っている気がしてるけど、実際の人とか社会とかの様子が何一つ見えてこなくて、それってただ枠組みの中に詰め込んで、とりあえず無理って決めつけてるだけなんじゃないかって。

ねえ、私を見てよ。目の前の人を見ようよ。誰だってこんなサインを出してるんじゃないかな。私だってそう思ってる。

変なラベリングや立場を取っ払ったとき、それ以前に、人と人でしかないから。私とあなたの話でしかないから。私はまずそうやって、どんな立場でも誰に対しても向き合うことしかできない。向き合って見つめて愛することしかできない。それも今。過去とか未来の誰かじゃなくて、今のあなたを見ることしか、できない。逆にそれだけは、できる。

相模原事件のことを考えていたんだけど、あの被告は結局、障害者のラベリングを外せずに社会的に価値のない人間は死ぬべきだという優生思想に、理想に走ってしまった。障害者を障害者としか見ることができなくて、人間だと、一人の意思を持つ人間だとわかってあげられなかった。人と向き合えなくて、抽象に逃げて世界平和を謳った結果があの悲しい事件で、言葉がなくても人間だとちゃんとわかってくれなかった。

目の前の人を、過去も未来も何も考えずに見据えるってことの難しさってとてつもないなって思う。過去に縛られて未来は暗いと決めつけて自分のことしか見えてなかった私が、目の前の人の今を考えられるようになったのは、今が、楽しいからなのだと思う。

生きたいと思った。だからもっと幸せに生きたいと思う。

全人類無理でも、お前ならいいよって言われたいって最近思ってるな。

 

そういや「愛しています。」と言った彼女の呪いに対して、うちの妹が遺した言葉はそういやめちゃくちゃ抽象だったなということを思い出した。

「ひとってなに?みんなってなに?」

正確には「ひとってなに?」って聞かれたから、私か母か父かわかんないけど誰かか「それはみんなだよ」って答えたら「みんなってなに?」って質問を重ねられた。ひとやみんなが何かって結局その時はうまく答えられなくて、伝えられなかったから、私はその答えをずっと、今の今まで探してた気がする。

「ひともみんなもわたしのことだよ。わたしがいるよ」って今なら迷わず、手を握って真っ直ぐ答えられる気がする。抽象じゃない。具体で。あなたの闘病の過去も死後の未来もない。今、この目の前にわたしがいること。ただその一瞬を大切に伝えられたらよかった。

それがなんとなく最適解かなって今、思うけどこの答えは今だからこそ出せたから、あのとき戸惑い傷付き苦しんだ、自分のためにこの結論を今は、ここに置いておくね。

 

それでも妹の遺品を辿ると大切なものの欄に必ず「家族」って記されているのを少なくともわたしは気付いているし、あの子は最期に、母親の方に手を伸ばして抱きしめたのを知っているから、結局あの子は、わたしと父と母に尋ねながら、ひともみんなもなんなのかわかってたような気がするな。

わたしは病院に着いてから錯乱してからの妹がずっとずっとこわかったんだけど、やっぱりあの子はどこまでも強い子なので、最後まで人間の真理をちゃんと考えてわかって、訴えていたようにも感じる。死んじゃって6年とか7年とか経つし私がようやくたどり着いた答えを最初から持ってた気がして、ああ敵わないなって思っちゃう。一生もう敵わない気がするけど、こうやって私の中で問いとして命題として生き続けてくれるんでしょ。

ならやっぱり、私はまだそれを解決し続けなきゃならないから、一緒に戦って生きてくれ。生きたい。時々やっぱり呪いになるけど、これは、私の死にたい理由であり生きる理由であるから。

だから、末長くよろしく。

ただいま

ただ、苦い欲が残るだけだった。

幸せで楽しい時間の終わりには欲が出た。めちゃくちゃ楽しかったのに、だから、さよならを言うことがものすごく辛い。憧れと嫉妬と尊敬とか言ったって結局は、そんな無理矢理当てはめたみたいな言葉じゃなくて、感情で一緒にいたいと思う。ああ、好きだなあって思うだけだ。一緒にいて楽しい。もっと一緒にいたい。それ以上に望むことが何もない。

 

幸せすぎるから終わりのことを考えてしまう癖があるし、どう足掻いたってあと一年と半分もないこの有意義な大学生活の中で、早く恋心が死んでしまえばいいのにと、また思う。それなら本当に楽だ。それでも、自分がこんなにあいつに関わるのは好きだからだし、あいつにとって大学生活を思い返したときに、私の影がたくさんちらつけばいい。いつかどこかで大学のことを思い出したら、私のことを是非、思い出して欲しい。

 

埋め合うから人は人を好きになるのだろうか。心の空虚を埋める為でも、自分を犠牲にするわけでもなくて、私はね。あなたを受容したことで、私が受容されたことで、すごく生きやすくなったのだと思った。許された。生きることを。向き合いたくなかった私のことを、受け止めてそうしてくれたあなたを、私も受け止められたらいいなと思った。あなたを受け止めるために私は私のことを受け止めた。人なんか放っておけよと言う、そんなあなたを放っておけない私でごめん。

 

ねえやっぱり、あなたと生きてみたいと思うから、私はこんなに苦しいのだろう。終わりが怖くて悲しい。どうか終わらないで。こんな私じゃ何もあげられないのかもしれないけど、私は私でしかなくて、それでも、あなたを受け止めながら、私は私らしく生きることしかできないから。

 

好きだよ。あなたじゃないとダメってことはないのに、あなたがいいと思うよ。やっぱり責任も何もいらなくて、なんだろう。なんなんだろうね。わかり合いたいと思うのかな。

結局ここに戻ってきてる。ただいま。おかえり。また行ってらっしゃい。

ゲームと想い出

無性に会いたくなって、妹の言葉を探していた。

 

不安になると妹が、もうよく頑張ったし死んでもいいんだよって夢で語りかけてくるのだが、今はわりかし満たされてて幸せで、だから妹のことを忘れてしまうことが急に怖くなった。

 

思い出そうってメールを開く。小学生の癖に、大人びた口調の漢字だらけの文面が目に付く。私と同じ、東野とか伊坂の本を読んでいたから、書けなくても読めるから変換ができてしまうからだろうな。メールを介して妹のことをなんとなく思い出してはいたけど、メールをしていたのは妹が入院中だったから、死ぬ間際の普通に過ごしてた時期の音声言語は勿論、全然残っていない。私に向けた妹の言葉に触れたい。実家の恥ずかしい二人の交換ノートが読みたくなる。

 

妹が病気になる前なら、もう10年も前になるのか。記憶が薄れることが怖い。最近あまりにも幸せすぎて、昔の幸せのことこのまま忘れてしまうのかな。妹とどうやって過ごしてたんだっけ。強烈な死ぬ間際のこととか、病気になってからのことしか、私はもう覚えてないんじゃないかな。思い出せない気がする。人から聞いても手紙を読んでもそれは断片的な事実でしかなくて、私と妹のことや関係性を改めて知りたいのに、もう妹がいないから、私が忘れてしまったら、その想い出は忘れられてなかったことになってしまう。忘れたからってなかったことにはならないし私の生き様に繋がってるのかもしれないけど、それでも、もう誰も思い出してくれない。

 

そう思ってたんだけど、妹の遺物に大量のゲームがあったことを思い出して、妹とやったゲームのことを思い出したら、たくさんの記憶が蘇ってきた。カービィのエアライドのシティトライアルでドラグーンとハイドラを両端からぶつけたり、レールの上で4人タイムアップをさせたり、vs.デデデが倒せなかったり。ドライブでお花を探して塔の上に登ったり、枠外の海に出てどこまで行けるか泳いだり、水車に乗れないか遊んだり、空中庭園ではしゃいだりした。

MOTHER3のポーキーをラスボスだと勘違いしてわざわざラスボスのために二階に上がったのに倒してもらうためにわざわざ一階に戻ってきたり、DCMCパンフはブタマスクに強いことを教えてもらった。

BWでは下画面ワイヤレスに感動して、一個街を進むごとに旅パで勝負し続けていた。だいたいこっちが勝ってた気がする。バオッキーが強かった。それでも図鑑集めはそっちの方が早かったし、そもそもゼクロムに二人とも一目惚れしたのに姉権限でとってごめん。ポケモンはだいたい私が譲らなかったひどい姉だったね。FRLGでは延々スロットしてたし、HGSSではレッドを倒すためにお互いめっちゃ苦労してたな。

ウルトラスーパーデラックス、スーパーデラックスがやりたくて二人でずっと夢みてたのに、私がテスト期間で我慢してたら先にやってて100%のデータ渡された時はめちゃめちゃショックだったよ。クリア早すぎだよ。ドロッチェ団のタイムアタック速すぎ。3の協力プレイはめちゃめちゃ楽しかった。ゼロ戦で断末魔上げてごめん。毛糸のカービィのアモーレめちゃくちゃ弱かったね。私のために二週目全部付き合ってくれてありがとうフラッフ王子。

スマブラでは私のストーカービィを見切るようになったから、どっちかというと撮影会ばっかしてた気がする。妹はオールマイティ使ってたなと思うし、でもやっぱり二人ともカービィ好きだったけどこれも私がピンクばっかりとるから黄カービィだったね、ごめん。ゼルダがめっちゃ強かったと思う。ディンの炎がマジで避けられない。あと、ルイージも強かった。スネークとスタフォ勢のコマンドのために命燃やしてたね。全キャラ見たはずだな。

スーパーペーパーマリオマリオギャラクシーゼルダマリオパーティ5、馬鹿みたいだ。ゲームに関してならこんなに思い出せる。ゲームは想い出付加するって思ってたけど、ほんとにゲームに関してしか想い出がないみたいじゃない。

ゲームがあってよかったし、私がゲームを好きでいれば、きっと絶対忘れないんだと覚えとこう。

妹が死んだ時ゲームも嫌いになると思った。想い出が深すぎるから。でもこうやって、どうしようもない夜に思い出したいときに、助かるなあと思うようになれるとは思わなかった。思い出したらまたここに増やしていこう。

 

なんだかいい方向に進んでるそうです。最近褒められた。もっと幸せになりたいなあ。

自己受容できてない奴に人を愛する資格なんてない

夢を3日連続くらいで見るんですけど、見るたび夢の中で会う人の懐古が増してる。見るたび昔の人に会う。しかも今、大人になった姿で。いまなにしてるのかなあって深層心理では自分が会いたいと思ってるのか。連絡も取れないくらい、遠い人なのがもどかしい。

 

最近、カップルとか夫婦のことについて考えてました。

自分の両親の夫婦仲は良いんですけど、自分の知ってる、他の夫婦たちは、仲の良い夫婦とダメな夫婦だと、ダメな夫婦の方が少し多い気がします。

深い事情は知らなくても客観的に感覚として「どうしてうまくいっていないのか」ってことはなんとなくわかるくらいには、不仲の夫婦をたくさん見てる気がする。お嫁さんがヒステリックとか、旦那さんが亭主関白すぎるとか、二人とも多忙すぎるとか、目に見える明らかな個々の原因とは別に、何か大きな共通点があるんじゃないかなあって、感覚としてはわかってたけど、上手く言語化できてなかった。

 

「所詮は相性や価値観だよ」

そういう言葉を言われて、あまりにもざっくりすぎて、自分はあんまり納得してなかった。正論すぎるけど、じゃあその相性とか価値観ってどうやって測ったらいいの? 第六感?なんとなく? 相性が合ってると初めは相互的に思えたはずの夫婦がダメになってるのはどうして?自分の経験則がないから、わかんなかったけどその分客観的に見えるものは多かった気がする。それこそ年齢関わらず。20〜80歳のカップルや夫婦をたくさん見てきてる。そのどれもに共通する原因ってなんだ。

 

自分の今辿り着いた結論も、結局は、相性次第だと思うんだけど、相性が合うってことは「相手を受容できるかどうか」なんじゃないかなって思う。

「相手がありのままであるということを受け入れられる」ってこと、つまりは「他者受容」、それが二人の間で大小はあれど相互的に成り立ってるときに、関係は持続するんじゃないかって。

そしてその「他者受容」は絶対に「自己受容」ができていない限りできるはずがないのだ。自分のこともそのまま受け入れられてない人が、目の前の人を受け入れることなんてもっと無理だ。

自己受容ができてないと、人を愛することもできるはずがない。自己受容できずに愛したそれは、きっと愛じゃない。

 

自分の知り合いに、昔、だいすきだったお姉さんが自殺した経験のある女の人がいて、本人は傷を多分20年近く抱えて生きているんですけど。その人は結婚すれば愛されて救われると思ったけど、結局苦しいままで、子どもを産めば人を愛せると思ったけど、結局苦しいままだということを聞いた。

それってつまりは、最愛の姉を亡くして生きてしまう自分のことを未だに受け入れられずに、姉との過去に縋り、他者に承認欲求を求め続けてるから、苦しいんだろうって思います。どんなに旦那さんや子どもたちが自分のことを愛してくれても、自分が自分のことを受け入れられなくて地に足がついてないから、それが届かなくて、苦しくて、その彼女が抱いた恋のような何かは、自分が救われたいとか、この世の全てを誤魔化したいとかそういう逃げの想いなんだろうなって。その上に築かれた家族はそりゃ暗いよ。ゼロかマイナスかってだけで、幸せになろうってプラスになる気がないなと。

自分を認められないのに人を認められるはずがないのだ。

 

人間そんな完璧じゃないので、じゃあ目の前の人を全部受容できるか?って聞いたら無理だと思うし、その受容できる範囲が、つまりは相性なんだと思います。人間は多面的なので、誰かの長所は、他の人には短所に映る。その人の、それこそ本人が自覚する性格や考え方を、長所だねってたくさん言えて受け入れられるのが、相性がいいってことで。

その本人が自分の性格や考え方を何一つ受け入れられてなくて「自分は本当はこんなはずじゃなかった」「自分はもっとできるはずだ」って言ってたら、どんなに周りが認めて受け入れても届かない。だから自己受容できてない奴に、人が愛せるはずがないんです。できない自分を愛して。だなんて。できない自分もできる自分もこの世のどこにもいなくて、どう足掻いたって、自分は自分でしかないのに。

 

私の知るうまくいってない夫婦は、この受容の観点から見てみると二つに分類できました。

まず一つは、そもそも片方が自己受容できてない人たちばかりだったんですよね。自分の今を見つめられていない。人からただ一方的に愛されれば救われると信じてる。

でも正直、人から愛されるだけで救われてる人なんて見たことない。人から愛されることで、自分自身を愛して、愛し返すことができてる。そういう二人はすごく幸せそうだなあって思います。

でも、私はとても不幸だ!!!って相手の愚痴ばかり嘆いてる人は、やっぱり何一つ、自分の今を認められてないなと。

卑屈で不幸ぶる人って、自己中心的だって最近ほんとに思います。人からどう思われてるかってことばかり気にするのって、結局は、人の目を気にして自分のことしか見てないんですよ。目の前の人なんて見てやしない。人から愛されることに頼る人は、結局、そんなの誰でもいいんです。愛してくれる誰かしらさえいれば、それこそカカシだって。そんな人が人を愛せないのは当たり前だから、だから結婚して破綻する。

相手が悪いんじゃない、自分を認められてない自分がまず足りてない。だからまずは、それに気付かないと。でも、気付いてないまま生きている人は、それこそ50歳を超えてもたくさんいるし、生きられはするんですよ。ほんとに辛いだろうけど。

 

もう一つは、相手を受容できてない夫婦。相手のこういうとこがダメだとか、許せないとか、こうすべきだと思ってしまうこと。全部受容するなんて無理だけど、その理想の押し付けの頻度が上がれば上がるほどずれて破綻してく。こればっかりは、ほんとに人それぞれの受容の許容範囲なんだと思います。向こうが変わってくれなくても自分が諦めて我慢すればいいや……って思ってしまう時点で受容範囲はずれてしまうし、それは受容ではない。どうやったて苦しい。

一緒にいて相手の長所が長所として発揮できるとか、それこそ短所すら長所として発揮されるとかそういうことが受容が合ってるってことなのかもしれない。短所があるとして、それは君の短所だから直したほうがいいよ、じゃなくて、短所は短所だからそのままでいいしじゃあそれはこっちが補うから、っていうのが他者受容した上での補佐であり、そういう夫婦は上手くいくと思います。自分の両親まんまだな〜って今書いてて思いました。うちの両親はお互いが、特に父が母のことを全面的に受容していて、母は正直そんな自己受容完璧!ってわけではないんですけど、父が受容してくれてるからその分すごく息がしやすいんじゃないかな。すごいな。

相手への不満があるなら、この人はこういう人だってことをわかった上で自分のしたいことをするという、対等さで接したらいいんじゃないかなと思います。この人はこういう人だって理解することは受容なのだと思う。この人はこういう人だからなんとかしなきゃ、っていうのは諦めとか逃げとかで苦しそうだなって。

 

マイナスとゼロを繰り返す夫婦は、あとカップルはしんどそうで、うまくいってる夫婦やカップルは、ちゃんと幸せになろうと前を向いて歩いてるプラスの考え方をしてる気がします。まだましとか普通に戻さなきゃとかじゃなくて、ただ幸せになりたいしそれを持続したいなっていう、未来へとしっかり歩んでいけるような強さ。すごく素敵だと思います。素敵な二人は、周りから見てるだけでこっちまで幸せになる。

 

人の世では自己肯定感が大切だ、なんてよく言われるけど、自分は自己肯定感は結構危険なものだと思ってるし、さっきから再度いってる自己受容と自己肯定は全く違うものです。

自己肯定は「自分はできるやつだ」と自信を持つことで、自己受容は「自分は自分だ」と認めることです。

例えば、テストで60点取った時に、本来の自分は100点取れると思い込む自己暗示が自己肯定。テストで60点取った時に、ああ自分は60点だったんだなと認めるのが自己受容で、この先でじゃあ次に100点取るためにはどうしたら良いだろう?って考えていくことに繋げるのが大切だと思っています。

 

さっきの例だけど、お姉さんを亡くしたからこそ、本来の自分は姉がいないとダメなのだって思い込むことは自己否定であり、人を死に追い込む危ない考え方だと思います。自己否定と自己肯定になんの違いがあるのだ。自分に掛けた自己暗示の、その自己肯定が間違っていた時、すぐに自己否定に走れてしまう。自己肯定は呪いだなあと思う。正しければいいけど、自分に正しく自己肯定の呪いをかけられる人なんてものすごく限られてるんじゃないかなあ。

だから、自己受容は、お姉さんを亡くして自分は苦しいとまずはちゃんと認める。亡くした姉は返ってこないということを認める。諦める。お姉さんは決して返ってこないけどこのままずっと苦しいままで生きるの?って自分に問う。それは嫌だって、思うよ。思えるよ、きっと。ちゃんと自分が辛いことを認められれば、人間ずっとずっと辛いままではいられないよ。

じゃあ今、幸せになるために自分に何ができるかなって考えたとき、たぶん、ほんとにすぐそばに愛してくれる人がいるなら、その人たちのこと今度は真っ直ぐ見られるはずだよ。というか、絶対いる。愛されてることに気付けば、自分は愛し返したいと思うし、そのために自分で自分のことを愛せるようになれる。

自分のことを愛することはほんとに難しい。ほんとに。いやになる。でもそれでも周りが自分のことを愛してくれるから、自分は周りを愛せるし、いつか自分のことも愛せるようになるよ。

人を愛するのが怖いって、そんなことないはずで、裏切られるのが怖いって人の目を気にして自分が傷つくのを怖がる時点で、自分のことしか見てないんだよね。人を愛することは本質的に幸せなことのはずなんだよ。人を愛するのが怖いのは、あなたが自分の今を嫌いで認められてないからだ。

 

人から傷付けられるより、なんだかんだ人間、自分が自分のことを一番傷付けてるんじゃないかなって思う。自己受容できてない時点で、自分のことを自分で虐めて苦しんでるんだと思う。私もそうだった。自分を傷つける人が、人を愛せるはずがないし、それは愛ではないし、みんな苦しいだけだ。

息苦しい二人が、少しでも減ればいい。どうしようもないこともたくさんあるけど、生きるのに苦しい人間は見ていて辛いよ。みんな呆れて離れて行っちゃう。

結局、辛い生き方を選んでるのは自分自身ってことに気付いて欲しい。

人間、どんな瞬間からでも今から幸せに生きたいと思えば、生きられるはずなのだから。