読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

27歳で死ぬつもりだったのに

自己半生記

この前、友達が「俺は43歳で交通事故で死にたい」と嘘か本当か分からないようなことを笑顔で宣ってたので、あ、すごく親近感を感じるなと思っていたら、上手に反応しそびれました。「自分は27歳が理想なんだよなあ」って答えるのも、くどいし野暮ったい気がして何も言えなかったような気がします。

学生時代、と言っても特に酷かったのは2年前の話ですが、本気で27歳で死にたいという故を強調しまくっていたので、当時からの親友には、すごく心配されました。すみません。今になって、そういう43歳で死にたい〜的な宣告を聞いた立場としては「ふざけんな」の一言に尽きますね。交通事故って。飛び出された方がたまったもんじゃない。まあ、そういう自分の死について何一つ責任も持とうとしないところ、儚くて格好いいと思います。自分はそういうところ無駄に小心者だから練炭でキメようとしてたのに。
 
27歳で死ぬ予定は今のところは考えていませんが、それでも27歳というのが自分の中では大きく区切りのある年齢であって、その先、どんな風に生きているのかが、未だに想像できません。
そもそも自分の人生は、15歳の時にラスボスと戦い、決着が付いて、その後はスタッフロールを歩き続けているという、自分の最も敬愛している「MOTHER3」というゲームをなぞらえたようなイメージが付き纏っています。「MOTHER3」を初めてやったのも15歳の夏でした。よくある物語のエンドロールで語られる、主人公は世界を救って幸せに暮らしました。チャンチャン!のその「チャンチャン!」の部分が、自分には苦痛で仕方がなかったのです。それまでの15年間の、いや、12年間にも及ぶ唯一無二の執着対象を失って、なお強く生きていけませんでした。立ち直れなくて、自分の高校生活はズタズタのボロッボロの有様でした。何が青春だ!ふざけんな!周りとの温度差についていけなくて、もはや、今では当時の記憶がありません。周りの顔も思い出も、殆ど覚えていません。死んだ目をしている、とにかく必死すぎて怖かった、と当時の友達に後で教えて貰い知りました。鏡を見た記憶もないから、自分の顔も覚えていません。
高校時代は、とにかくぶっ倒れるまで働いてみて、そして今度はどこまでも逃げ続けて、自分の限界を試しながら、ただただ自暴自棄でした。日々をかなぐり捨てていました。
自分の限界まで前に進んで、そしてあらん限りまで後ろに逃げたので、どちらも生きる気力を亡くすほど辛いことがわかりました。身を削るような吐くような想いをしたし、もう二度と経験したくないけれど、生き方の方向性を決めるものとして良い収穫だったなあと思っています。極端すぎるけれど。
当時は27歳で死にたいと口々に言っていましたが、「死にたい」のではなく「生きたくない」のが正確でした。存在として消えるのはいやだが、このまま呼吸だけして世界には存在させてくれねーかな……みたいなことを毎日ずっと思っていました。病院でカテーテルをぶっ刺されて、放っておいたら生命維持すらままならない子達の「生きる」とは違って、健常者の自分が「生きる」為には、人間として社会に溶け込まないといけない。それがとても面倒臭かったので、そして、怖かったので植物になりたがっていました。ええ、本気で。呼吸以外できませんでした。植物ですら光合成をしているというのに。それ以下。
 
なんで立ち直ったかというと、必死に生きることをやめたからです。植物として生きたいという叶わぬことを望むのもやめました。これは無理、あれも無理って、冷静にひとつずつ取り除いたら、知りたいことが残ったので今はそれを続けることにしています。
生きる意味を探していました。
自分の運命を何かしら人生の糧にしなくてはならない。辛い想いをしたからこれをプラスに変えて、生きていかなくてはならない。だから前に進み続けました。でも、結局運命は覆せないことを思い出してやめました。辛いもんは辛いやって諦めて、今ではそこそこ受け入れすぎない程度に哀しみと付き合うことにしています。世界は万能ではないから、どうしようもないことを諦めることも大切なんだ!という結論に辿り着くまで、5年くらいを費やして青春は気づいたらドブみたいな色をしていました。バイバイ
 
それでも今はやりたいことを見つけた分、そこそこ楽しいし、ドブみたいな時代を笑って客観的に見れるだけ良かったなあって思います。自分がドブみたいに辛かった時代を楽しく生きた奴、全員畦道に落ちろ!くらいには呪ってます。楽しい。
 
43歳で死にたがってる友達は、ある意味俗世的というか自暴自棄に好きなように囚われず執着せず生きてるんだろうし、だからこそ、2年前の自分を思い出して切なくなります。止める権利はないのですが、彼も、死にしがみつく必要のないような生き方ができるようになったら良いなあとは思っています。
自分が27歳に拘ったのは、執着対象と共に過ごした12年間を越えて、自分一人で生きる瞬間の方が多くなったときに、自分という存在は果たしてどうなるのだろうか、という疑問から出た数字です。15歳であった当時、彼女のいた12年間より彼女のいない期間が上回った時、それは彼女の死を、彼女がいなくても大丈夫だという人生を認めてしまうことになるのではないか?と思ったことを今でも覚えています。今でもその問いに答えは出ていません。それは、本当に27歳になった時に結論が出るんだろうなと思っています。練炭炊いた七輪なんか蹴り飛ばして、なーんだ何一つ変わんねーや!まだ生きよう!って笑ってみたいなあとは考えてます。指標であり、彼女への執着心の墓標として刺さっている27歳がとても今から楽しみです。
 
エンドロールを越えて大切なものを失った主人公は、ようやく出た続編で、強く逞しく生きれてるよ!とどこまでもゲーム脳は思うのでした。