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人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

自己完結人間

つぶやきぼやき
自己完結人間について、ここ最近考えていました。
ここで言っている闇持ち人間の、ある意味での境地なのかなって、自分はそう名付けています。

特に、オタクに多いのかなと思ったりもしますが、他者との関わりを必要以上に持つことを最初からする気もなく、誰かの大切にもならないし、誰も大切にする気もないような人です。
顔は広く、常識もあるけれど、これ以上誰かの介入も必要としていない、のが当たり前で、そういう考え方をしている何人かと友達になったので、色んな話をする機会がありました。

友達として一緒にいて楽しいし、話題も合うし、何一つ不満もない中で、でもやっぱりどこか、もやもやする気持ちを抱えたまま付き合いを続けていました。

自分も、死んだ彼女に対して執着しているので、この世の全ては彼女以下だと考え、彼女以上の存在は、この先一生現れることはないだろうと、思い込み決めつけて、人に深く介入することを諦めていました。
どんなに彼女のことを大切にして語りかけても死者からはレスポンスが決して帰ってこないということに、虚しさを心のどこかで覚えながらも、どうせ自分なんかには見つからないし、彼女以上の存在なんていないとキラキラした思い出を抱えて生きていました。

決めつけと思い込みって、やっぱり人の選択肢を狭めるんですよね。
人は、基本的に、変化を恐れて嫌う考え方をしています。
ただ少し、動けば変わるのに!ってことに対しても、努力しても帰ってこなかったときの虚しさが怖くて、じゃあこのままでいようと停滞を望む生き物です。

自分も5年ほど停滞にい続けて、それでもダメだと思って、とりあえず外に出るだけ出てみたけどやはりずっとずっとしんどかったです。どうして自分はここにいるんだろうと自問自答しながら生きていました。
でも、いつのまにか、ああ、今楽しいなあ。
彼女といた時よりも別の形で笑えてるな、と思った時、死ななくて良かったと心から思いました。

負けた、と思いました。
彼女が死んだこの後の将来に、あれ以上の幸せと相互理解は存在しないと、認めなかった自分は間違っていました。

別に、特に大きな出来事があったわけでも、引きこもる窓をヒーローが割って入ってきたわけでもありません。
ただ、偶然仲良くなった友達が、自分の彼女への執着を否定することも認めることもなく、それでも変わらず自分を必要としてくれて、能天気に接し続けてくれただけでした。
彼らと過ごして1年経って、そこで自分より重症の、それこそ自己完結人間の友達に会いました。強く共感し、シンパシーを感じるとともに、どこか2年前の自分を見ているようで、しんどくなりました。

自分に置き換え例えるならば、彼女への想いを史上最高と永遠に位置付けて、これ以上の新たなる人の干渉もいらないし必要ないし満足しているんだな……と。
停滞も孤独を選び取った人間なのだなと。彼らの呪縛は、家族についてのことでした。

彼らと接したとき、率直に言えば、格好いいと思いました。
きっとこっちのことは、歯牙にもかけてねえし、相互的に、本当の意味で仲良くなる気はないのだろう。
自分の力じゃどうしようもない難題に直面したからこそ、頼れず自分で折り合いつけて納得しちゃったんだなって。理不尽な出来事に解釈と理由付けをすることで、そうやって自分を保ち、ここまで完成させて生きてきたんだなって。

強いな、って。
そこまで他者の介入を必要としない生き方が自分にもできたらよかったと思いました。
完結してるのかっこいいなぁって、偶像崇拝みたいな感情すら抱きました。

ああなりたいと思いつつ、きっと自分は弱いからそこまでにはなれないし。
そして、そこまで強くはなりたくないと、思うところもありました。


でも、彼らはきっと考えを曲げようとはしないし、それが正義だというので、自分には何も言えませんでした。
変わらないのが彼らだからこそ、自分はじゃあそういう変わらないつもりの彼らを愛そうと。
別に彼らは不幸でもないし、何一つ不自由もしてないし、理不尽な世界が当たり前だと享受してずっと生きてるわけだし。
彼らの痛みなんて経験してないから、絶対理解できないわけだし。

閉鎖的に生きたまま目指した先で、そうやって楽しそうに自分の中で生きてるなら、もし心を開かなかった自分の一つの可能性としてこういうものもあったのかなあ……と憧れて受け入れようとしました。
彼らとの理解は、もうここまでなんだろうねって。


「そういう人間がいるんだけどね。貫かれてて自分一人で生きていて、格好いいよね」

そう、自分は友達にこぼしました。
そうしたら、ある友達はこう言いました。

「でもさあ、自己完結人間って悲しいし、俺ならそれを変えてやる。それじゃあ寂しいよ。そういう大切な人が現れた時、俺の気持ちがそんなもんだと思われたくない」

余りにも真逆な考え方でびっくりしましたね!
本人が満足だと思ってるから、それを勝手に不幸だとこっちが決めつけて変えようって思うこと自体が、傲慢じゃん!?って。
向こうだって、でも自分の痛みなんか他人にわかってたまるかって思ってるから余計なお世話なんじゃん!
勝手に同情される方が迷惑なんじゃないかって!!
人を変えるのってそんな簡単なことじゃないし、しかも縛られてるのって家族だし、家族の呪いって厄介だし他人事だし理解できないし、知らないからそんな無責任なエゴなことが言えるんだこいつ!って。

そう否定しつつ、自分の考えにも、あれっと思う部分はありました。

「変わらないあなたが好き」ということは、もしかして勝手な同情であり、偶像化なのではないのか?
だってどうせどんなに言ったって、きっと変える気もないし、変わる気もないし本人たちがもうこれ以上望まないし満足だし関わるなって言ってる。
なら、彼らの生き方を肯定した方が彼らの為になるんじゃないの?
でも、それって変わるはずの人間の可能性を全否定してない?人間はもう絶対変わらないものって、決めつけて諦めてない?
相手を尊重してるように見せかけて、結局変わらなくていいよって勝手な崇拝を押し付けてるんじゃないの?
それで彼らを自分が一番分かってるって理解者のふりをして、勝手に自己満足してるんじゃないか?

自己完結人間として周りと関係を遮断する彼らを肯定していいのか、否定していいのか、わからなくなりました。
悩んでいた時、それこそ、ある友達にこう言われました。

「そういう人達に対して、変わってほしいと働きかけること自体は間違ってない。エゴの押し付けなののなんだの言ったって、結局、変わるかどうかを選択するのは向こうの話だ。だからこそ変えるのは、そんなに口で言うほど簡単なことでもない。悩むくらいならばとりあえずやってみたらいい。それを決めるのは結局、自分の意思だから……」


とても、自分の中で納得したとともに、ああ、やっぱり、諦めたくねえなと思いました。

人と人との出会いと関わりによって奇跡は起こると信じています。
だって、自分は、救われたから。

というかそう言われて、初めて、ああ、自分っていつのまにか救われてたんじゃんってことに気付きました。 

世界なんか死ねって思ってたはずなのに、必要とされて愛されて甘えられて、自分が本気で悩んだ時にそういう本気を返してくれる人が目の前にいるじゃんって。
日常の一部として溶けて、基本的にバカみたいにはしゃいで、でも本気で悩んでいる時には、それは間違ってるって返してくれるし、あなたのおかげで救われたと笑顔で返してくれた。
毎日めちゃくちゃ楽しんじゃって、ああ我慢することなんてなくて、幸せの上限なんてなくて、生きててよかったって思えちゃってる。

それは多分、彼女が死んだ世界の可能性を信じてみようと思ったからなんですよね。
自分が、世界に可能性を見出したんです。
どうしても手放したくないと思ってしがみついていた過去のキラキラした思い出は、確かに今でも大切なものだけど、じゃあ一生それだけでいいやっていう思い込みによって他の幸せの可能性を、自分で潰していたんですよね。
あんなにも大切に想って何よりも信じていたし確かにあそこにあったのも紛れもなく幸せだったけれど、実は世界はこれだけじゃなかった。
そして、別に努力したからこの出会いが手に入ったわけじゃない。
じゃあ探してみようと思ったら、気付いたらそばにあったんですよ。びっくりしました。

人との関わりによってしんどいことはたくさんあります。
自分だって切り捨ててしまった人間関係がたくさんあるし、そもそもの苦しみの始まりはどうしようもなく人に執着したからであり、だからこそ停滞を望みました。
でもそれを救ったのも、また人でした。

自己完結人間に「きっとあの子は愛されて恵まれて育ってきたんだろうなあ」って諦めのようなぼやきを吐かれたことがあります。
他者に依存しないような環境下で生きてきたからこそ、自分を守る術を自己完結という形で確立させているから。
この先も、普通にこのまま生きていけるのだと思います。

自分は、救われたから分かり合えた経験があるからこそそれを信じたがる。
彼らは分かり合えなかった人間を間近で見たからこそ、いつか壊れる恐怖を考えずにはいられない。
どちらも経験に根付いてるから、どちらも事実であり間違ってないけど、両者とも主観的すぎると思います。

じゃあ、幸せと不幸を並べてどっちを信じるか?って時に、自分はやっぱり幸せを信じて欲しいって思うんです。


自己完結人間だって「本当に愛なんてこれ以上必要ない」と本気で思ってるんじゃなくて、
「努力の為のリスクがでかすぎるから、頑張って必ずしも報われないのなら最初からそんなどうせ叶わない無駄な労力を割く気がない」って思ってるし、思いたいんです。諦めてるだけだって信じたいんです。

そして、人の出会いって、時の長さで深まるものもあるけど、それは最初から相性の合う人同士が、共に時間を過ごしてより深まることのプラスからプラスに発展していくんだって。

出会いの運命って巡り合わせとタイミングなんです。
本当の意味で、関係性を継続していくのに労力ってそんなに必要なかったりするんです。
出会いの質なんです。
その出会いがどこで起こるかなんてほんと誰にもわかんないんですよ。
降ってくるときに降ってくる。
出会えたらいいなぁって少しでも思ってたら、気付いていたら出会ってたりする。

だから、最初からいらないって遮断するのは本当の出会いに気づく気がなくて、勿体無いと思うんです。
自分も全然、気付いてなかった。だって彼女が一番だと思い込んでたし、決めつけていたから。

自分についてのことって、結局は本人が納得するかしないから、他人が働きかけても、結局決めるのは自分でしかないんです。
それは、どんな人でもそうだと思います。

でも最初から、人と人はけして分かり合えないから、だから一人で生きていくって全てを遮断するのは間違っている。
自分について納得するかしないかじゃなくて、そもそも、納得する気がないのは可能性を全部殺してる気がするんですよ。
自分の属するコミュニティの範囲が狭いとか、どうせ出会いなんてないし……とかそういう問題じゃなくて、出会いがないって決めつけてたら、どんなところにいたって絶対出会えないんですよ!
出会いがあるって信じてたら降ってくるんだよ!そういうものなんだよ!
分かり合える人なんていないし、どうせめんどくさい人間関係に割く労力なんてないだなんて。
どうか、巡り合わせがないなんてそんな悲しいことを決めつけないで欲しい。

おばけを怖がるけど、必死におばけが存在しないことを解明してるみたいで。
愛を怖がるから、必死に愛が存在しないことを証明したがってるんじゃないのか。
おばけも愛も、ないことを証明できない。

それでもどうせ綺麗事だって、そんなのめんどくさいしどうせ壊れるしなくなるものだって遮断するのかもしれない。
どうせ裏切られるし出会えないし、なら最初から求めない方が期待もせずに済むって。
自分だってそうだった。
でもほんとに、ちょっとの気持ちの持ちようなんですよ。

人と人との関わりの中で、絶対に運命って存在する。した。自分は見た。出会ってた。
わかりあうことで、なにかしら変わりうることがあるから、最初の可能性を否定したくない。

永遠の愛を語りながら見つける気すらない奴に、お前はロマンチストじゃないな、俺こそロマンチストなんだよ、なんて言われたくない。
運命の相手はわざわざ選んで探すとか、維持する労力を割くとかじゃない。出会えるか出会えないかの問題だと思っています。
ずっと昔から周りを気にして生きてきて、人の機敏に敏感だからこそ、人を見る目はそれこそ自己完結人間にはめちゃくちゃあるなあと感じます。
じゃあ向こうが心を開かないんだろうっていうのは、多分自分が開いてないからなのではないかって。

運命とちょっとの働きかけだと思うんだよ。
だから、そこを遮断して最早、絶対ありえないって思い込むこと自体が運命を取り逃がし続けると思う。
運命なんて大層なこと言うけど、一緒にいて楽しいなあ、もっと一緒にいたいなあ……って思う出会いがあったって、ただそれだけの話なんですよ。
一緒にいるのが疲れるから一人の方がましって決めつけるのもわかるけど、全人類においてじゃあ人といると、必ず辛い思いをするって決めつけるのは早計すぎやしませんかって思うんです。

同じ人に出会っていたとしても、こちらの態度次第で、絶対関係性は変わるんです。
そして関係性は変わるものだ。生きてるから。相互作用しあってるから。
心を開いて接したら、いつかきっと相互的信頼が得られると、自分は信じている。

だから、自分は信じることにしました。
自分が彼らに対しては、もしも分かり合えなかったとしても、彼らが心を開こうとするきっかけのきっかけくらいなら作れたらいいなって。

こちらが変わって欲しいと願うからには、一生、味方でい続けるくらいの態度は貫かなくてはならないなっていうのも考えて、すごく悩みました。それってとってもこちらとしても辛いことだと思う。
モチベーションなんてものは死ぬからいつか諦めてしまう時が来るかもしれない。
自分は、必ず溶かしてやろう!という光属性になりきれないのもわかっていました。


だからこそ、相手を変えたいと働きかけることで何か得るものがあると思う、と考えて貫くことに決めました。
結果じゃなくて過程に全ての意味を見出すことにしました。
結果はどうであれ、自分がこう働きかけたことが無駄にはならない。だって間違っているとは思わない。

自分としても、人を大切に想い続けたこの気持ちが無駄にはならずに何かの形になると信じることにしました。
努力はどんな形であれ、必ず帰ってくるんです。

あなたたちはやっぱり理想論だと笑うのでしょうか。
こんなに自分が悩んでいるのにって押し付ける気もないしそこに意味なんてないし、この想いなんて結局伝わらないで終わるのかもしれない。
それでも、全ての出会いと変わりが無駄だと切り捨て不可能を信じるのなら、そんなことないって自分が証明してもいいですか。

それほどまでに愛したいと思っている。

人を愛することで得られる相互理解が、価値が必ずこの世には誰もに存在すると証明したい。

自分が働きかけることくらいじゃ足りなくて、気付いてくれなくてもいい。
5年後、10年後、いっそ死ぬ間際に気付くくらいでもいい。

不幸の押し売りじゃなくて、幸せのお裾分けだからどうか許してください。
どうか、人と関わること、深い関係で分かりあうことを恐れないようになりますように。


信じて欲しいし、まずは信じます。
だから信じてくださいとは言わない。
いつか信じてくれるようになりますように。