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人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

恋愛と友愛の違い

「恋愛と友愛の違いってなんだと思う?」

自己完結人間に、そう聞かれました。

自分は人を好きになったことはないし、付き合ったこともない。
そして今も、この先も必要としていない。
なんで、みんな恋愛に帰結していくのか。
友愛では駄目なのか。

彼女の問いはそういうものでした。

まあ彼女は自己完結人間なので、本気で悩むというよりは、統計的データが取りたくて、周辺の色んな人にこの質問をぶつけているらしいです。
それは裏返せば、彼女の命題でもあるのかもしれません。
もしかしたら、本気で知りたがり、本当は理解したがってるのかなあとも解釈したので、全力で自分なりの答えを返そうと思いました。
(真面目だねぇ……と彼女には笑われてしまいましたが笑)

どんなに自分が答えを出したところで、納得するのは彼女自身だし、はなから納得する気もないのかもしれません。
それでも聞かれたからこそ、自分はそれに答える義務があるのだと思いました。
だから、全力で答えます。


自分は、恋愛と家族愛を混同して考えているところがあって、それがあるからこそ正しく語ることはできないなと思っていました。
でも、やっぱり自分の中ではどうしても切り離せなくて連続したものだと、今回答えを出す中で改めて感じました。


世界の人間の中で、関係性に唯一、明確な名前が受動的に与えられているのが家族であり、血の繋がりだと思っています。
だからこそ、関係性に明確な名前と繋がりを能動的に与えたのが恋人であり、与えたいと思うのが恋心なのではないでしょうか。


人は決して一人では生きていけないと思っています。
社会的にも、そして、精神的にも。
人との関わりの中で、アイデンティティや自己肯定感が育まれて人間は暮らし、生きていきます。

その生きていく中で、「時間共有を瞬間的にしていると気が合って楽しい」ことが友愛で、「出来る限りずっと一緒にいたいし時間共有を持続したい」と願うのが恋愛で、それが夫婦へ、そして家族愛に昇華していくのではないでしょうか。

共にいることに幸せを感じるのが、家族愛です。
世の中の全ての家族に平等に愛があるわけじゃないけれど、家族愛を感じる人は、その当たり前さと不変さを愛しているんだと思います。


きっと、恋愛の行き着くところは、自分の人生と相手の人生を重ねたいと願うところにあるんでしょう。
この人の隣にいたら、きっと、例えば一緒にご飯を食べたり、同じ映画を見たり、ゲームをしたり、同じ本を読んだり、共に時間を共有すること、そのものに幸せを見出せると思ってしまったから、人は恋をするし、それを恋と呼ぶんじゃないでしょうか。

当たり前の日常を共にこの人とつくりたい。
家族になりたい。
恋愛って、それを叶えるためには燃えるような荒々しさや不安や苦しみが伴うのかもしれないけれど、相互理解が、愛が、完成したら日常の中に潜む当たり前のようなものなのかのかもしれません。
だから、未完成の家族愛が恋愛かなって。

友愛は、時間共有そのもので満足する完成された愛。
恋愛は、当たり前の日常を共に過ごしたいと願う相手に抱く、家族愛に足りえない未完成の愛だと、自分は考え定義しました。



しかしながら、自分は、結婚が人生においての最適解とは考えたくないです。
それこそ、未婚のまま一人で生きていくことや、シェアハウスという形も、もっと法的に認められるべきだと思っています。

大切なのは自己決定なのだと思います。

人生において後悔しない生き方を選んでほしいし、だからこそ結婚するのが絶対幸せ!とも思って欲しくないし、絶対に結婚はしない!という思い込みもして欲しくないんです。


一人で生きていくことを選択しなくてはならないかもしれない。あえて、最初からそれを選択するのかもしれない。
それでも、人と共に過ごすことの喜びや楽しさって必ず存在しているから、その可能性はかなぐり捨てないでほしいなあ……とやっぱり思っちゃいますよね。
自分で決めたことならきっと後悔しないとは思うけれど、その決めたことが理不尽な不幸に対しての防衛反応としての頑なな思い込みだったら、もしもできることならば未来に対して希望を持ってほしいと思います。

人間誰しも、どんな生い立ちであっても、生きるのを楽しむことを、幸せに生きることを我慢しなくていいんですよ。
自己完結の彼女への答えにはなっていない気もするけれど、なんとなくメッセージとしてここに記しておきます。

生きることを楽しめるのは、生きている人間だからこその強さと開き直りだと信じたいです。
本当に心から後悔をしない生き方を!