人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

傷と刃物

闇の世界との隔たり - 人間蘇生だモラトリアム

自分は、闇持ち人間というものを定義していたんですど今はだいぶ考えが変わりまして、この闇持ち人間に関して、俯瞰的、且ついろいろ考えています。

 

そんな闇なんて甘えだ!って言い切ることは未だできません。いや、事実として闇は存在しているというか、過去を闇と定義すれば、それは闇になるんですよね。

起きてしまったことその出来事に対して、自責の念、諦め、そして囚われることを選択した時、人は過去が闇になり得るのです。

全てのことにポジティブになれとは言いません。それでも、自分を責めたり、どうにかできなかったのかなあと考えたりすることは、自分の未来を狭める一因になるのかなあと思います。

そういう自分を責め続ける人生を歩みたいと心から思うのなら、それでいいのだと思います。

自分で、本当にそれを心から望むことならば。

そんなこと言ったって責めざるを得ないんだよじゃなくて、多分それは、自分で責めることを選択して生きているのだと思います。自覚していないだけであって。

  

そのことを踏まえて、今、自分は「過去を傷にも刃物にもしたくない」と考えています。

彼女の死を傷と理由にして、たくさんの言い訳を重ねてきました。辛いのはこんなにも生き辛いのは、彼女が死んだからだ。そう言ったらみんな悲しそうな顔をしながら、許してくれました。だから自分も自分を甘やかして、その傷を大切に囲って。

治す気もない癖に。そもそも傷なんてないのに。傷だと思い込んでるのは自分なのに。

彼女の死を刃物と武器にして、たくさんの人を傷つけてきました。こんなことがあって辛いのだから、彼女が死んだ自分はこんなにも可哀想なのだ。そう言ったらみんな悲しそうな顔をしながら、許してくれました。だから、自分も自分を傷付けて、傷付くことが当たり前だと思っていました。細かな傷なら耐えられる。傷付くのが当たり前な、可哀想な自分。

彼女が死んだって別に自分は特別な人間じゃないのに、何かしら大きな力にしようとして。

彼女の死を傷にすること、彼女の死を刃物にすること、それは生きる上で必要な手段で当たり前のことでした。

彼女の死に心を痛め、彼女の死で人を傷つけ、そうやってしか生きられないと思っていました。いや、そう生きることを知らず知らずのうちに、選択していたんだと思います。

 

彼女の死を認められるとか、認められないんじゃなくて、自分はきっと彼女の死を「何か」にしたかったんだと思います。

それこそ彼女の死を必要としていて、彼女の死を中心にした人生を歩みたがっていました。それは、確かに不自由で苦しいものでしたが、それでもこれが良かったんです。この先に楽しい未来なんて何一つないと思っていたから。

 

だからこそ、未来の無限大の可能性を信じたいと思った時、もう彼女のことを大事に抱える傷にも、人を傷付ける刃物にもしたくなかったのです。

この先変わると思うけれど、とりあえず今は、第三の選択肢を選ぶことにしました。

彼女を自分という存在の一部にしたい。

彼女が亡くなったということを自分で改めて受容したいし、人に認めてもらいたい。

それは理解や共感とか同情ではなくて、事実として。
「彼女を亡くした自分」という存在が、個として今に生きているのだということ。その上で未来を生きたいと思っていること。
開き直りでも劣等コンプレックスでも不幸自慢でもなくて、ただ対等に、自分がそういう過去を辿った人間であったということを知って欲しいと思っています。
そして、あくまで一部だから、彼女が私の全てではないです。
自分を構成する要素として、彼女の生き様も、彼女の死も確かに含まれているけど、それが全てじゃない。彼女が全てではないんです。
彼女のことを他人に知って欲しい時もあるし、そうじゃない時もある。

彼女のせいにしたい時もあるし時にはしてしまうと思うけど、大体関係ないのもわかってる。
自分の全ては彼女ではないから、その場で、現時点での自分が考えて行動する。

彼女の存在をどうとでも取れるような、自由な存在にしたいです。

彼女を引きずってるわけでも、彼女を盾にして進むわけでもなくて、彼女が自分の内にいて共に寄り添っているようなイメージであり、自分はそれが、今とても楽だなあと感じています。

 

彼女のことで心が痛むことがなくなりました。

以前は、昔の手紙とかメールとかムービーとかとてつもなく痛くて苦しくて、でもその痛みすら愛おしかったから、やっぱりその苦しみに酔う人生を自分は望んで選択していたのだと思います。

結局は自己選択であり、その痛みを選択するのも自分だからそれに後悔がなければいいんですけど、自由な世界を見ることすらせずに痛みを選ぶ前に、とりあえず自由な世界と痛みを比較してみないか?と提案してみたいです。

それからでも痛い世界を選ぶのは遅くないんじゃないかなって。自分は自由な世界を見たらもう楽さに驚いて引き返せなくなっちゃいました!

幸せに生きていけない人間なんていないです。全ての人間は、望めば絶対的に幸福に生きられると信じています。

 

そうやって最終的に選ばせるのは本人でも、選択のために人を引っ張ってみたいなあと今、自分は思っています。

最近偶然読んだいくつかの本に「馬を川まで連れて行くことはできるが、水を飲むかを決めるのは馬だ。無理矢理水を飲ませることはできない」と書かれていて、そうだなあと実感しています。

川にすらいけない、もうそれがこわい人をとりあえず川まで連れてって、本人に決めさせる。

そういう意味での自己選択を人に導いていけるようなひとに自分はなりたいです。