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人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

愛はひかる

自分が相手の力になれる、という勇気がほしい。だから、その後ろ盾としての堅い自信がほしい。ほしいほしいって言っていたって勝手に降ってくるわけじゃないから、つくるしかない。

 

目の前の人を幸せにするヒーローになりたいなんてそんな無条件で献身的なことは思わないから「幸せになりたい」って言えるようになりたいなあと思った。

一緒に幸せになりたいと、思ってほしい。

幸せになる権利がないとか、こんな薄暗い人生を歩まなくちゃならないし、これを歩むのが自分の生き方だって、あんまり思ってほしくない。その道はあまりにもつらすぎるから。自分の好きな人には最大限幸せになってほしい。

 

目の前に絶望するなり自分の生い立ちに対して諦めている人がいた時に、そこから脱するかそのまま停滞するか、最終的に決めるのは自分の選択だと思うんだけど、そう思いすぎるあまり手を引くことすらずっとできなくて、だから、自分を選んでくれなくても、どこかでいつか幸せになってほしいと、その為のきっかけのきっかけのきっかけとか、踏み台にならばなれると思っていた。

踏み台になりたがって、自分が選ばれる為の積極的で直接的な努力ができなかった。それはやっぱり逃げなんだろうし、選ばれなかった時の為の言い訳として「自分のあずかり知らぬところで幸せになって」と言っていたんだと思う。選ばれないことがこわいから防衛線を引いていた。だって、選ばれなかったら、幸せを選ばなかった相手のせいにできるから。

 

まずは自分が示すべきなのかな。経験則なんて主観で独りよがりであると思うけど、それだけの絶望も希望も自分は両方辿ってきたと思う。すごく辛い時期も、とても楽しい時期も、こうやって振り返って全てをちゃんと覚えているから、全てのことに意味があったと知っている。

そして、未来のことは誰にもわからない。

 

きっと視野狭窄のまま生きてもいいのだろうし、例えば、ゴッホなんて拘りを持ち続けて絵に生きて耳を切り落として精神病院に入ってまでも、描いて描いて描いて生前は報われることなく死んだはずだ。気が狂っても描き続けた、描くことしかできなかった彼のことを誰も咎めることはできないじゃないか。何回だって彼は描くことを止められなかった。苦しかったからこそ描けるものはあって、そして結果的には今にまで歴史に名を刻んだ。でも、きっとほんとに途轍もなく苦しかっただろう。死んだ後に遺した名声はゴッホには決して届かない。苦しいことに向き合わないとやっぱり苦しいことはずっと、死んでも苦しいままだ。

 

やっぱり相手の為にはなにもできない、とかそんな弱気をほざく前に、じゃあ自分なりにどうしたら相手が世界に幸せを見出してくれるか、行動すべきだ、なんて。

振り向いてもらうために頑張って結局ダメでも残るものがあるのであって、最初からダメを想定するのはダメなんじゃないか。絶対的な未来は存在しないから。

 

それでもつらくてつらくて、でも、この屈折した愛と気持ちで筆をとったらキラキラとした絵になったから、びっくりした。

こうやってきっとゴッホも生きたのだろうし、でもだからって絶望の崖っぷちにいて命を削ってかき続けることは、私にはできなかった。

 

だからこそ、人に会いたいと思う。愛した結果がこんなに綺麗にひかるのなら、ずっと人と関わっていきたい。歴史に名前なんて残せなくても、人を愛して苦しんで後悔しないで生きていきたい。愛する人を傷付けることになっても、愛することをこわがらないようにしよう。