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人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

絵を描くということ

絵を描くことが好きです。自分にとって絵を描くことはどういうことなんだろう。

自分は表現者なのでしょうか。

かつてそう思ったこともあり、何かを形にしないと生きていけないと決め付けていたこと(発掘!私小説 - 人間蘇生だモラトリアム)はありました。

 

哀しみを原動力として作り出せるものはあると思います。そしてそれはとても美しいのかもしれない。でもそれはきっと、哀しみにどこまでも向き合って見つめて形にすることなので、多分哀悼することより、ずっとずっとより辛いことです。

以前ゴッホの例え(愛はひかる - 人間蘇生だモラトリアム)を出しましたが、ピカソにも、青の時代という親友を亡くしてただただ暗い絵を描き続けていた時期があるので、そういう負の感情を乗せて大成した画家もいます。

ただただ昔は描くことが好きだった。そのうち、人に何かを伝えたいと思うときに絵というツールを知らず知らずのうちに選んでいたんです。友達への誕生日プレゼントに絵を描いたり、生徒会のみんなに絵を描いたり。そして、世界で一番大切な人の永遠の最期の別れに、大好きだという想いを伝えたいと思ったときに、その手段に、絵を選択したんですよね。生前の彼女との交換日記にも、たくさんの絵を描きました。そういやあれ引き出しの中かな。絵が拙くて恥ずかしくて見返せてなかった気もする。

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そこから、感情を絵に乗せて表現することが得意になりました。画力が向上したのもありますし、ごちゃごちや理論的に考えたことを絵として乗せることが楽しかった。根は理屈っぽいからなんでここにこの色を塗ったとか、こういう構図にしたのか当時の絵を見て、今でも全部答えられたりするんですよね。感情を乗せてるのに全然感覚では描いていない。

評価されるのはそれはそれで嬉しいけど、人の為には描いてなかったし、自分の考えたことが綺麗に形になるのが何よりも楽しかった。

それが評価のために、受験に受かるために、それこそ知らない誰かに必要とされる目的のために描き続けたとき、しかもその原動力が負の感情であり、表現したからって何も還ってくるわけじゃないと分かっていたことに気づいたときに描けなくなりました。

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特別上手くもないのに、描くことに縋ってそれが生きる意味だと思っていたから、当時「そんなに無理しないでやめて趣味でも描ければいいんじゃない?」と言われて、暴れてキレて荒れ狂ったのを覚えています。それでもやっぱり辛くて描けなくて、筆を置いたとき、それこそ自分よりずっと上手い友達に「無責任だけど描くことはやめないでほしい」とぽつりと言われたことを覚えています。

そしてやはり、やめられませんでした。

今は、深く考えずに描きたくなったとき、感情表現のために描き続けています。定期的に毒素を出すというか。悩んだときには絵を描く。するとなんかスッキリするんですよね。好きなゲームをやってそのクリアした熱い気持ちを絵にぶつけることが本当に好き。最近はずっと友達をモチーフにした絵を何枚も描き続けていますが、それでも自分の描く絵が少しずつ明るくなってきた気もします。

気持ちを形にしたとき客観性が生まれるし、私は何かを伝えるためというよりは、何かを吐き出すための絵を描いてるときが一番楽しいです。自分の悩みなり、やって楽しかったゲームなり、本当にキラキラして感情を閉じ込めておける気がする。忘れなくて済むし。

でも、絵はコミュニケーションの手段にもなり得ると思うし、伝えるための絵を描くこともあります。こういうのはやっぱり武器としての絵なのかもしれない。この前も実習に行ったときに自分の描いた絵を通してコミュニケーションを図ることのできる場面が多くありました。

 

結局不特定多数に伝えるためのデザイン的な絵は描けなくて、目の前の誰かか、それか自分のためにしか絵が描けない。

生きる意味ではないし、そんなゴッホみたいに縋りたいわけでもないので、というかそれは辛かったから、趣味だし自己表現の一つなんだと思います。

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人に喋るとかこうやってブログに書くとかそういうのと同じ。それが自分にとっての絵を描くということ。