人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

選択肢をあたえて!

人に何かを伝えようとするときは、話し言葉より書き言葉の方が得意だ。

どうしてなんだろうと、ずっと思っていた。相手の反応がなくて済むからとか、言葉の方が一度整理できるからなのかということか、適当な理由を考えていたけど、結局、原因が見つからなくて、人に自分のことを伝えて話すことに、口下手なんだという言い訳を添えて、苦手意識を持っていた。

 

気が付けば、簡単な話だった。

自分は、相手に対して、「あなたの考えに対して私はこう思っている」ということを伝えられないし、伝えようとするという意志そのものが全く存在していなかったということだった。

 

そんな馬鹿な話があるか!?と疑ってみたものの、確かに自分の幼少期からの全てを思い出してみても「人に対して助言をして選択肢を提示する」ということをした記憶が一切存在していない。ひとつも。それこそ母や父に対しても、妹に対しても、幼馴染に対しても、中学時代に頼った友達や高校の親友や大学の友達にも、大好きな人や大嫌いな人に対しても。誰一人思い浮かばなかった。

 

自分の意見はしっかり言えることは知っていた。昔から劇の主役や委員会の立候補はできたし、進路についても自己決定ができていた。人よりも思い切りがよく、決断力と判断力は長けていると思う。そのための経験則や知識もある。あと分析力も。組織としてどうやったらうまく回るかとか、この人はこういう人だということを理解しようとする力とか。

ただ、その意見を言う対象が人に、人の意思と選択に向いたとき、自分の意見は掻き消えて、私の意志はどこかに行ってしまう。人に対して何かが、言えない。

 

あらん限りの暴言で人を本気で傷付けた。「選択しろと言っておいて選択肢を提示しないなんて無責任だ」と言われて初めて気づいた。そして6月頃に「お前はお前のことをわかっていない」と言われた意味がようやくわかった……。

無責任なつもりはなかった。人に意見を言ってそれが間違っていることが怖くて、私の保身のために逃げや諦めがあるわけでもなかった。

私は他人の自己決定を大切にしたくて、相手がそう思うのなら、それが一番に大切なことだということを何よりも大切にしたかっただけだった。相手のことが多分、人よりもわかるから、相手が今どういう状況に置かれていて何をしたいのかが大体分析できてしまうから、じゃあその通りに生きて欲しい、と人に対して、ただ、願っていただけだった。

 

暗闇の中に人が立っていて迷っている、そういう例えを友達からされました。

普通の人なら、明かりを持って「こっちにきてみたらどう?きてもこなくてもどっちでもいいよ」という選択肢を提示して、それを選ばせるかどうかが自己選択だよって。それか横に立って、「一緒に考えていこう」というのが養育の立場なんだと思う、と。

「こうすべきだ!!!!!」と思いすぎる人は、その人の手を引っ張って引きずっちゃうんだろうな。それはそれで、うまく転ぶこともあるけど結局、本人は自己選択できていないかもしれない。

じゃあ、私がやっていたことは何かっていうと、その暗闇の中にいる人を水晶の中に閉じ込めて外から見て「さあ、自分で暗闇の中から答えを見つけてみたら!君の望んだところに行ってごらん!自己選択が大切だ!!!!でもその選択肢は与えません!!!自分で見つけてください!!!!!!」ってことだ、ということを言われて、目から鱗だったし、その通りだと思った。

相手の自己意思を大切にした結果、介入と私の自己意思がかき消えて、相手に対して一番して欲しいことが「自分の好きな選択をしなさい」ってことになっていた。

暗闇の中の道標もない相手に、探して選べという。

だから相手のことを考えてるのに何がしたいのかわからないってことになるし、無責任に映ったんだと分かった。

 

なんでこんなに人の自己意思を大切にしすぎてしまうのか、それはきっと私がずっと暗闇の中にいたからなのかもしれないなあと。私は運良く暗闇の中で答えを自力で見つけられてしまった。そういう意味で私は強いのかもしれないし、偶然運がよかっただけなのかもしれない。だから人も自己選択すべきだと。私が強要していたのは自己選択じゃなくて、選択肢そのものから創り出して見つけろっていうことだった。そして私は、それができちゃっていたし、そうやって生きることで一番後悔しない生き方ができていると思っている。

 

あとこれは、多分直接の原因だと思うけれど、私は両親から、人生の大きな局面において選択肢を与えられたことがなかった。

「あなたの望むことをしなさい。あなたのやりたいこと、そのためならば何でも助けてあげる。」

本当に全ての私のやりたいことに対して反対されたこともなかったし、全力で応援してくれた。だから私は、私のやりたいことができたし、ほんっとに恵まれている。でもその分、何かをしなさいと強要されたこともなかったと思う。「勉強しなさい」とも言われたことがなかった。

私にはちゃんと今生きていて、生きる為の判断力があってしっかり生きやすい道を選べたからいいけれど、それこそ引きこもっていてもそのこと自体を責められることはなかった気がする。

だから私は強いのだと思うけれど、強すぎるから人は自己選択、いや、自分で選択肢から見つけ出すことを、知らず知らずのうちに人にも望んでいたのだと思う。

恵まれた環境じゃなくて視野の狭い人間に対して、自分の望むように生きなさいっていったってそりゃ暗闇の中から抜け出せるわけがない。

 

私、きっと人一倍感受性が強くて、人の気持ちもわかって、それこそ人がどうしたら一番傷付くかわかってそういうことできちゃうのに、人を導くためにこの判断力を使ったことなんて、この人生の中で一度もなかった。

 

私の大好きなゲームを思い出した。

最後の戦いで主人公はラスボスから選択肢を与えられる。ずっと信じてきた世界は全てまぼろしで、このまま自分の罪に対して見ないふりをして傷付かない永遠に続く幸せを選ぶか、それとも目覚めて自分の罪に向き合うのか。希望の停滞か、絶望の断罪か。

主人公は断罪を選んだが、絶望を選ばなかった。とにかく前に進んで定まらない未来を創って、その中に希望を見出すと言った。

 

選択肢がある中で、その選択を選ばないことにも意味があるのだと思った。

二つの選択肢があって、どちらかを選んだからって必ず全てのものがどちらかになるわけじゃない。二つから少しずつ取る選択もあるし、両方選んだり、選ばなかったりする選択もある。

どちらかに決めつけない、その為の道標としてもある程度の選択肢は必要であって、私は、その為の材料作りばかりしてそれだけを与えて、選択肢までを与えられなかったのだ。選ばれないことが怖いとかそういう臆病さじゃなくて、本当の意味でそれが本人の為になると本気で信じて……。

 

無意識の経験則。私が一番怖いと言ってたものじゃないか。誰よりもそれに縛られて身動きが取れなくなって苦しんでいたのは。

 

私の考え方の全てが悪かったとも思わない。人の意見を聞いてそれに意見せずただただ受容するその献身的態度が、私に与えてきた恩恵もたくさんあったと思う。だから私は家族に、友達に恵まれて、愛されてこうやって生きてこれたと思う。

ただ私が、この先このまま望む職業を選ぶときに、そして大切な友達に関わり続けたいと思う時、もっと仲良くなりたいと思っている、今。

どうしても人に伝えたいことを伝えなくてはならない時に、私は、やっぱり自分の気持ちを自分の言葉で伝えなくてはならない。

 

その発想と方法を知らなかっただけで、道標となるだけの判断力と分析力はたくさんあるはずなんだ。あとは伝え方。神様ぶらない。

 

私が、何かがおかしいと思っている時、人に対して納得できないことがある時、やっぱりそれは私の言葉であなたに伝えなくてはならないのだと思う。伝えたいと思った。伝えていいんだ。伝えなきゃならないんだ。

 

今まで人と話してうまく言葉が紡げなかった。それは、きっと相手の気持ちを受け止めてそれが相手にとってどういう意味をなすのか分析するのに時間がかかって、それで理解できたところで結局相手が今どうしたいかわかるだけで。私は、自分の意見を言おうとする発想がなかったから、そのまま私の気持ちを、私が一番頑張って殺していたのだ。それが相手の為になると本気で信じていたから。

 

選んでほしいと思って伝えたい。それが私の本当の意味での、心からの自信になれたらいい。

話すことが上手になりたい。

自分のものさしをつくれたとき、私は、あなたたちにもう一度話がしたい。