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人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

感謝感激雨あられは地に吸い込まれていくけど、どうか芽を出してくれないか。

つぶやきぼやき

あけましておめでとうございます。

去年一年を振り返ると、目の前に現れたたった一人の問題解決のために、どうにか伝えようとしたくて、こんなにも他人のことを想えるのかってくらいずっと考えていたら、いつのまにか五年ほど抱えて蔓延っていた自殺願望がなくなってしまって「生きるのって楽しいね」と思えたことが、2016年、自分の中で最大の出来事だった。

2016年のどころか、2011年の元日に「ああなるべくはやく死にたい!!」と思った時に次ぐ、人生二番目の衝撃でした。

だからこそ、ここでもう諦めなければいけないのかもしれないなんて、弱気が顔を出す。

これがもしも物語なら「ありがとう!私はあなたのおかげで生きたいと思えた!変わることができた!」「そうか。俺だってお前に向き合えたから良かった。これからもよろしくな」みたいな話になるのかもしれないが、対象には「あっそう」くらいで済まされてしまうようなそんな感じである。ここは悲しかや現実。

それでも、感謝を伝え続けたら何か変わるんじゃないかなあって気持ちをずるずる未だに引きずってる。でも「ありがとう」って伝えたいそれだけなのにどんどん自分がすり減っていくのを感じる。

 

そもそも前提として、上手く伝えられてないのかもしれない。今も仲がいいのかが全くわからないし、友達どころか、このまま、縁が切れて積み重ねてきたものが全てなくなってしまうような感覚すらある。向こうが断ち切ってるのか、なんなのかよくわからないけど、当たり前の明日が継続していかないような、ぞわりとした感覚が、目の前で本人は笑っているのに、私の背後に迫ってきている。急に目の前から行方をくらませてしまうような儚さとか、上手くいかなかったら人間関係全部切ればいいや、いらないや、みたいな、適当で無責任な投げやりさをこっちは受け取るし、きっとこれを感じているのは自分だけではないと思う。だから君の生き方は周りの大体の人間にちゃんと理解はされてるんだと思う。納得されているかはともかく。

その癖に「またいつでも機会はあるからそのうち遊ぼう」と言うのだ。本気でその機会を作る気もないのに。嘘ではないんだとは思うけど、そこまで、じゃないんだと思う。

そのいつでもって、一体いつのことなんだろう。今ならそんなに苦労しなくても訪れる当たり前の明日が存在するかすらも、自分はとても不確かだと思うのに、どうして乱暴に未来を信じられるのか。

口だけ動かして巧みにその場を誤魔化して、その度に叶わなかった約束や未来を、忘れているのか忘れたふりをしているのか、なかったかのように切り捨てている。だから、私だけがそれを覚えている。

 

だから忘れて欲しくないよ、どうにか大切にしてよと思いながら感謝を伝えたいとは思っている。でも、どうして途轍もなく遠くて届かないような気がするんだろう。純粋なありがとうより、責める気持ちを大声で言ってしまうからだろうか。

いや、ほんとは伝わってるのかもしれない。

そういえば遠い昔に「もうそんなことはわかってるよ。なんでお前は俺がわかったことをわかってくれないのかなあ」って言っていたのを思い出した。

きっと、フィードバックが自分の望んだ形でこないから、こっちが満足してないだけなんだろう。感謝するってことも「私が変われたから、あなたもこちらにきませんか」ってそう言う下心と目的がずっとずっとあるんだ。

そして、きっと私の「変わって欲しい」って想いをわかった上で「変わらない」という選択を選んでるんだと思う。

わかってくれたって意味がない。行動が伴わないから確信にならない。変わって欲しい。でもわかってよって言ったって、変わってくれるとも思わないから、とにかくありがとうを伝えてる。

遠回りすぎるから、やっぱり本気で「わかってほしいよ」ってしっかり言った方がいいのかもしれない。今ここに打ってて、またどうせわかってくれないから意味がないって諦めて日和ってるなと、自分でも思った。

 

一つ目、人との関わりを諦めて欲しくない。

二つ目、死ぬために生きて欲しくない。

私があなたに望むのはその二つだけだし、これらは、まだたった一年前には私が人生において完全に諦めきってたものだった。

私も大層な人間じゃないからあいつに対して神様ぶってるのかもなって思うし、あいつは何一つ今に不自由してないんだから勝手に哀れむこと自体が失礼なんじゃないかって思うけど、そんなこと言ったら一年前の自分も「自分が人生に不自由している」だなんて露にも思っていなかった。

 「こうやって自分は一生大切な人も作れずに呪われて死んでいくのだ」そういう決めつけと生き方は、私の芯であり、変えるとか、救われるとか、そういう類のものではなかった。

「そういう人生」だから。そういうものだから「仕方がない」と。

自分で自分にかけた呪いだから、結局解くのは自分でしかない。私は呪いが勝手に解けたのではなくて、呪いを解いた方がずっとずっと楽に生きられるということに気付いただけだった。だから解いた。

変えようと思って変わったわけじゃない。私のトリガーは、側にいたバカみたいなあったかい友達と、自分より酷く生き方を狭めることを拗らせた君のような友達の、両方の存在だった。

直接私の自殺願望を打ち消すトリガーを引いたのは、私の側にいた二人の友達だけど、二人が大切だということに気付けたのは、私を拒絶する君のような酷い友達と、どうしたらもっと仲良くなれるのだろう。どうしたら他人を信じて大切にして生きてくれるのだろう。そしてその存在が私になればいいのに、ということを願って望んで考えていたからだった。

目の前の奴をどうこうするより、まずは自分がこの世の全てを信じていないじゃないかということに気付いて、だから側にいてくれた二人の友達なら信じられるし信じたいと思った。まずは我が振り直せということで、人を信じるにはどうしたらいいのか。どうしたら振り向いてくれるのだろう、ということをずっと考えていた。だから、君から頼られたかった。

無い袖は振れない。頼られ続けることも違うと思った。そうやって試行錯誤を続けて、ここまできて、ちょっとだけど、前より胸を張れるところまでは来れた気がする。何より君に進言できるようになった。

 

43歳で死にたいと言った君に対して、本当にあの時は私も、27歳で死にたいと心から思っていたから、親近感を持ってめちゃくちゃ嬉しかった。わかるんだ。わかったつもりなのかもしれないけど。君を見てると幼くて大人ぶってた投げやりで、毎日死に向かって適当にやり過ごしてきた五年間の自分を思い出す。遠い目標だけは一丁前に立てていて。やりたいことはあった。それを果たしたら27歳で死んでもいいと思っていた。

43歳で死ぬというのが冗談なのは知ってるけど、こんなまだ若いのに仮定だとしても死について決めつけのように考えが及んでいること自体が悲しいし、悔しい。27歳で死にたいと同じように冗談で笑っていた私は、そこから逆算して未来なんて何ひとつ見えてなかった。今が良ければいいと、昨日のことを全部忘れて、明日のことも考えられずに、ただ短略的で投げやりな瞬間の繰り返しの日々しか送ってきてなかった。

「どうせ人生は27歳までしかないから、本当にこの瞬間だけ楽しければいいんだ」

ねえ、だから、あんなにも軽い人間関係しか築かないのだろうか。どうせ自分のことなんて誰も気にしてないし、都合が悪くなれば切り捨てればいいって。自分のことを誰も気にしてないように感じるのは、自分が誰も必要としてないからなのだろうか。今ここに問い掛けている言葉は全部全部、たった一年前までずっと私が思ってきたことだ。

 

あと、自分を投げ捨ててまでかけられてしまう家族愛についても、自分の日常をおざなりにしてまで、尽くせる対象がいることがずっと羨ましかったし憧れてたから、肯定も否定も渦巻いて結局、何も言えなかった。

血縁という絶対的な愛と保障は、死んでも断ち切れない揺るがないものだし、理由にしちゃえばずっと側にいられて、そしてなんにせよ絶対的に裏切らない、のかもしれない。そんなの案外当たり前じゃないんだけどね。私の家族愛も絶対的に信じられるものだった。血の繋がらない夫婦の亀裂を真近で見てるからこそ、より血に縋りたくのなるのかな。

骨髄移植でマジの物理的な意味で、血を分け与えた姉妹ということが、私の中ではずっと誇りで標で縋って固執した事実だった。血をあげることに全く迷いがなかったから、家族に対してなら自分を犠牲にすることは厭わないのは自分もできるし、わかってしまうような気がする。

嬉しかった。私に妹はもういないけど、私が死んだ妹にかける執着の一端を、それこそ君も、わかってしまったのだと思う。

私は君に対して「もしも妹が生きていたら」と可能性として考えて、君は私に対して「もしも兄妹が死んでしまったら」ということをお互いに見出していたんだと思うし、だから私の事情と妹の死に敬意を払うことは当たり前だ、と言い切ってくれることが本当に嬉しかった。それは全然当たり前でも普通なことでもないよ。少しも逡巡しなかったのは、君が初めてだった。

 

同情、みたいなチンケな感情から始まってはいたけど、きっと本質的に私と君は似ていて、君の考えてることがわかってしまうような気がするのは仕方のないことなのだと思う。境遇とか考えてきたことは、ある程度似通ってるのに、決定的なところが違えてる。そこが、未来への生き方なんだと思う。

私は愛するからこそ強く生きたいと思うけど、君は愛するからこそ傷付きたくないのだと思う。私も、かつては誰よりも傷付きたくなかったし全部終わらせてしまいたかった。

似てるからって、あなたのことがわかるよって、傷を舐め合って生きていきたいわけじゃない。

確かに君のおかげで私は本当に色々なことに気付けた。その多くは反面教師だったと思うし、私がなくしちゃったものとか通ってきた道とか全部抱えたまま無理矢理大人になろうとして目の前で笑ってたから、こんな風になりたいと思うと同時に、こうはなれないと思った。そして、なりたくないとも思った。

尊敬から始まった感情も、心配とか憤りとか妬みとかやり切れなさとかを通り越して、感謝に昇華してしまった。欲はあるよ。それでも今思うのは、ただありがとうって気持ちでしかない。ねえ、やっぱり、ありがとうの本当の意味が何一つわかってないよ。わかってよ。わかって欲しいよ。私のありがとうの意味が伝わった時、多分もっと生きやすくて望んだ道を選択していけるはずなのに。いつ見ても生き辛そうで逝き急いでて、面倒臭いことが嫌いなはずなのに一番面倒で厄介な道ばかり通り続けてる。

君は私のこと振り返ってもくれないけど、同じように、私は君がいなくても生きていけるのだ。この一年間で君から貰ったもの、見出したもの全部抱えて、めちゃくちゃ幸せに満たされた人生を送れるんだと思う。「君がいなくちゃ生きていけない」なんて縋るような絶対無二の愛を叫ぶような気持ちにはならない。

それでも君と生きてみたい。

私がなくしちゃった大切なものを後生大切にしてる君のことがどこまでも眩しくて羨ましい。

できることなら出来る限りそばで。それが叶わないなら近くでいいから。少なくともどうか目の前からいなくならないで。私のことどうか切り捨てないでほしい。今はそれをただ望んでる。

 

君に似てる頑固な私なんかでも、人生にこうやって生きる希望を見出せたから、どうか気付けるなら、なるべく早いうちに気付いてよ。気付こうとしようよ。

やめてくれ、と言われたらやめられると思った。去年の五月からそういう根比べの始まりだったから。だから自分で諦めようと決断したら諦められると思っていた。だからとりあえず半年やって無理そうだからって、この数ヶ月ずっと、諦めるための心の準備と理由を探し続けていた。

やめたくない。ここでやめたら負けた気しかしない。やめろと言わないのは知ってるけど、その契約が破られてやめろと言われても、もうやめない気がする。

やめられないんじゃない。やめてはいけないと思う。どうしても悔いしか残らない。やっての後悔とやらずの後悔なら、迷わずやっての後悔しか選ばないんだけど、散々やってきたはずなのに今ここでやめたら、やらずの後悔しか残らない。

何をしたらいいんだろう。多分きっとここで書いたことを全部言うとかそういう、全力のこと。

このまま行方を眩まされたら、一生後悔する。ターニングポイントに今立ってる気がする。そういう、2017年の始まりだ。

公開するかちょっと悩みました。こんな感じでごめんなさい。どこまで続くかわからない自転車操業、今年もよろしくお願いします。