人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

愛することを目の前のひとに許される、そんな契約を結んでどうか幸せになりたい。

夢を見た。

人に愛される幸せな夢だった。あまりにも幸せだから、夢の中の自分は酷く動揺してその愛を必死で拒んでいた。そのくらい唐突で、でもどこか現実と地続きな姿をしていた、その人はやっぱり私の妄想の産物だったんだと思う。

目覚めた時、覚めないで欲しかったと思う気持ちと、こんな純粋でシンプルな愛を自分は深層心理として望んでいたということによる自覚に心が落ち込んだ。幸せな夢を見るときはいつもこうだ。正夢になればいいと思うけど、あまりにも、遠い。自分のどこまでも広がってしまう無限大の想像力が憎い。

 

最近、周りの大切な友達がどんどん幸せになって、というか愛すべき人を愛して、愛されて笑っていて、本当に良かったと感じている。

人を愛せることを許された喜びと、愛されることを享受した喜びを又聞きみたいに聞いている。私を介さなくても、それはちゃんと本人に伝えてあげてほしい。やっぱり愛が届いているのを見るのは楽しいし、いいなあと思う。

 

届かない愛に意味はあるのか。

せっかくなら届く愛に労力を割きたいけど、非効率で無意味で自分で決められないから、意味のないものを愛してしまうんだろう。歪で、苦しくて、それでも自分を保つために人を愛する。いつかそれが許されたいと思っている。

 

許されない愛を世界で一番大切にしていた。届かない絶対的な死者へのラブソングを歌って、笑って。楽だったよ。指標が骨となって動かないから、どんだけ乱暴に愛したって自分を哀れんだって構わないから。そのために未来の全てを生贄に、自分の10歩先すらも見えない毎日を過ごしていた。考えたくない。そうやって逃げて逃げて逃げて逃げて、周りの人の愛に気づけなかった。死者を愛すのは楽だ。だって動かないから、裏切ったりしない。死者は喋らない。

だから、生者を愛してしまったとき、レスポンスが帰ってくることにびっくりした。拒絶でも無視でも、向こうの選択でこの愛が蔑ろにされてるということに驚いたし、しかし、だからこそ可能性があるから届けたいと思ってしまった。今も思ってる。どんなに無視されてもただ愛せることが心から嬉しかったくらいには、私は、愛を線香の煙に飛ばすことに慣れすぎていたのだ。よくないことだと気付いた。

 

それでも、こうやって周りで届いて結ばれる愛を見ていると、普通の人はこれを当たり前のように目指してるんだなって思った。死者から生者にグレードアップしても、無視されることに慣れちゃダメなのかなとも思った。届かないなら諦める勇気も必要なのかもしれない。

結局、私は何がしたいんだ?

 

強欲になりたい。ずっと幸せを追い求めていたい。今も本当に幸せだ。だからこそ、私も幸せに愛されたいというか、愛すことを許されたいと思った。

多くを望んでないのは本当だよ。ただ好きなゲームの話をして笑って語ってそういう日常がいつか、帰ってきてほしい。やっぱり、その無くした遠い遠い普通の幸せを私は、また別の形で作りたい。代替したい。許されたい。愛すことを許してほしい。

さみしいことはさみしいと言っていいんだとわかった。人に囲まれて本当に毎日楽しくて、愛されてありがとう。でも、かつて失くしたあの子の代わりを探してる。みんなの特別ではあるのに、誰かの特別にはなろうとしない。誰かの特別になりたいんじゃなくて、特別を手に入れたいみたいだ。結局は死んだあの子の影を探し続けている。

 

人が好きだと思った。改めて。一方通行のこの愛を届けたい。届いたってことを知りたい。まだ届いた気がしないよ。届くことで私も幸せになりたい。残酷なくらいに普通で幸せなあの夢が、本当に叶ったらいいのになあ。