人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

抽象を取り払って、今、目の前の人をみること。

ニュース見てからどこか大分気分が暗くて、さっきまで気絶してたのでやっぱりトラウマは改善されてないのか〜っていうか乗り越えられるものでもないよなと思いました。自分はこうやって亡くなっていく人にたくさんたくさん触れ合っていくかもしれない仕事に就きたいと思っているので、この先の進路でいいのか、こんな遠くの会ったこともない人のニュースで自分のことがフラッシュバックして傷付いてるなら余計無理じゃないのか、もっと見ないふりして生きていけるはずだぞ、とぐるぐるぐるぐるしていた。

 

美しい話ですよね。本人が美しい話とか可哀想だと思わないで欲しいと願っていたことも含めて本当に皮肉ながら美しい話ですよね。「愛しています。」で人生の幕を下ろせる、死者がここまで気高く一瞬一瞬を強く生ききったことに比べて、遺される人たちのなんて弱いことか。

生前の死者が美しいほど、気高く強く生きたほど、本当に皮肉ながらその美しい思い出がどこまでも呪いになって蝕むことを、痛いほど、それこそ死にたいほど知っている。でもあんなに生きようとしていた死者に顔向けできないから死ねなくて、それでもあなたのいない世界は色がなくて死にたいと願ってしまう。美しい想い出に、私だって、ほんの1日だけでいいから帰りたい。そうしたらこの先それを抱えて生きていけるような気がする。

ただ、想い出は美しいけど、自分は、その想い出を抱えて呪いのままそれでも生きたいと思って、生きる人間の方がずっとずっと美しいと思っています。強さが美しいなあって。

だから今は悲しんでいい、現世のことは地獄としか感じられないかもしれない。それでもやっぱり過去を取り戻したいって思いは消えなくてもいいから、それと同時に、未来を生きてみたいよって思える気持ちが育まれたとき、それが人間の強さなんじゃないかな。

妹の葬式の時、「これからがつらいんだよ」って言ってくれた妹の友達のお父さんがいて、そのお父さんも昔、家族を亡くしていて、「よくがんばったね」とか「つらいよね」って他の人みたいに言わなかったその意味がやっとわかった。きっとその人も今でもつらいまま、それでも、今を生きてみたいと思ったから、そうやって私に言葉をかけることができたんだなって、私も今なら同じように思うし、声をかけたいと思う。ニュースを見ながらそんなことを考えていた。

 

抽象的なことって人間理解に遠いねってすごく最近感じる。というか、自分がずっと考えてたことの全部の悩みは、人を真っ直ぐ見ることで解決するのだということに気付いた。

「彼氏」が欲しい。

「彼女」はいらない。

「障害者」は生きる価値がないから殺した。

自分だけじゃなくて「他のみんな」も傷付くよ。

うちの学級の「子ども」は荒れてるなあ。

「家族」だから離れられない。

「誰」もわかってくれない。

「全人類」とわかり合う気がない。

「社会」の中で私は価値がない。

「世界」平和を目指したい。

 

括弧で括られたたくさんの抽象は、もっともらしいことを言っている気がしてるけど、実際の人とか社会とかの様子が何一つ見えてこなくて、それってただ枠組みの中に詰め込んで、とりあえず無理って決めつけてるだけなんじゃないかって。

ねえ、私を見てよ。目の前の人を見ようよ。誰だってこんなサインを出してるんじゃないかな。私だってそう思ってる。

変なラベリングや立場を取っ払ったとき、それ以前に、人と人でしかないから。私とあなたの話でしかないから。私はまずそうやって、どんな立場でも誰に対しても向き合うことしかできない。向き合って見つめて愛することしかできない。それも今。過去とか未来の誰かじゃなくて、今のあなたを見ることしか、できない。逆にそれだけは、できる。

相模原事件のことを考えていたんだけど、あの被告は結局、障害者のラベリングを外せずに社会的に価値のない人間は死ぬべきだという優生思想に、理想に走ってしまった。障害者を障害者としか見ることができなくて、人間だと、一人の意思を持つ人間だとわかってあげられなかった。人と向き合えなくて、抽象に逃げて世界平和を謳った結果があの悲しい事件で、言葉がなくても人間だとちゃんとわかってくれなかった。

目の前の人を、過去も未来も何も考えずに見据えるってことの難しさってとてつもないなって思う。過去に縛られて未来は暗いと決めつけて自分のことしか見えてなかった私が、目の前の人の今を考えられるようになったのは、今が、楽しいからなのだと思う。

生きたいと思った。だからもっと幸せに生きたいと思う。

全人類無理でも、お前ならいいよって言われたいって最近思ってるな。

 

そういや「愛しています。」と言った彼女の呪いに対して、うちの妹が遺した言葉はそういやめちゃくちゃ抽象だったなということを思い出した。

「ひとってなに?みんなってなに?」

正確には「ひとってなに?」って聞かれたから、私か母か父かわかんないけど誰かか「それはみんなだよ」って答えたら「みんなってなに?」って質問を重ねられた。ひとやみんなが何かって結局その時はうまく答えられなくて、伝えられなかったから、私はその答えをずっと、今の今まで探してた気がする。

「ひともみんなもわたしのことだよ。わたしがいるよ」って今なら迷わず、手を握って真っ直ぐ答えられる気がする。抽象じゃない。具体で。あなたの闘病の過去も死後の未来もない。今、この目の前にわたしがいること。ただその一瞬を大切に伝えられたらよかった。

それがなんとなく最適解かなって今、思うけどこの答えは今だからこそ出せたから、あのとき戸惑い傷付き苦しんだ、自分のためにこの結論を今は、ここに置いておくね。

 

それでも妹の遺品を辿ると大切なものの欄に必ず「家族」って記されているのを少なくともわたしは気付いているし、あの子は最期に、母親の方に手を伸ばして抱きしめたのを知っているから、結局あの子は、わたしと父と母に尋ねながら、ひともみんなもなんなのかわかってたような気がするな。

わたしは病院に着いてから錯乱してからの妹がずっとずっとこわかったんだけど、やっぱりあの子はどこまでも強い子なので、最後まで人間の真理をちゃんと考えてわかって、訴えていたようにも感じる。死んじゃって6年とか7年とか経つし私がようやくたどり着いた答えを最初から持ってた気がして、ああ敵わないなって思っちゃう。一生もう敵わない気がするけど、こうやって私の中で問いとして命題として生き続けてくれるんでしょ。

ならやっぱり、私はまだそれを解決し続けなきゃならないから、一緒に戦って生きてくれ。生きたい。時々やっぱり呪いになるけど、これは、私の死にたい理由であり生きる理由であるから。

だから、末長くよろしく。