人間蘇生だモラトリアム

考察が三度の飯より好きなゲーマーです 一応誰に見せても恥ずかしくないブログという名目です

結局立ち向かう以外に救われる道はない

めちゃくちゃ死にたい絶望があっても、結局その絶望に打ち勝つ為には絶望に立ち向かわないとずっと辛いままだなんて、人生の構造としてそれでも人間の生き様として、理不尽にもほどがある。逃げて見ないふりをするだけでは真の希望は勝ち得ないのかもしれない。向き合うことで辛いのにそれに対して真摯であることでしか救われないのだ。そこそこの停滞でいることが、少なくとも私は辛かった。自分のことを馬鹿だなあと笑いながら、結局傷を抉って身を投じることで一番の救いを得ているのかもしれない。

人と人との不幸を比べることに何ら意味はないと思っている。自分が辛いと思ったらそれが全てなのだ。人の方が辛いからって自分が辛くない理由にはならない。だからこそ私は、人との辛さを比べるか否かではなく、その本人が辛いことに向き合っているか否かで人の価値を図りたいと思ってしまっている。自分の辛いことを辛いと言えること自体が、とても偉くて素晴らしいことなのだ。自分の辛さを辛いと認めない限りどこへも行けやしない。自分の辛さを辛いと認められたそこで初めて、じゃあこの先どうしようかって進めることができる。そして、自分の辛さを辛いと認められる為にはある程度の客観性が必要なのは事実で、やっぱり大切なのは人との関わりなのかなって思ってしまう。

人との関わりを大切にしている私でも、未だに誰とも会わずに一人で寝ていたい1日がある。だから両立はできるのだ。引きこもりたいからって人との関わりをおざなりにする理由にはならない。両者は共存できるはずなのだ。

友達の、結構ショッキングな家族に関する一年ほど前の図解があるんだけど、最近読み返したら「まだ悩んでいます」ということが最後に書いてあるのに気付いた。そういうこと、一人で決めなくていいんだよって私は言いたい。解決にはならなくても話すことで楽になることを知ってほしい。一時的な解決としては「楽になる」という軽いことなのだと思うけど、それが5回、10回、100回と続いた時のその関係性にこそ価値があるのかもしれない。そういうことを知ってほしいと願う。それこそ人との関わりの中に身を投じて生きていくのならば。

自立できてないことは問題なのかもしれないけど、それとは逆に一人で全部決めて頼らないことや甘えられないことはとても不自由なことなのだと思う。甘えられることも才能だ。甘えることは自分でできることも他人に委ねることで、頼ることは自分ではできないことを他人にお願いすることなのかもしれないというつぶやきを見た。頼ることが下手なのは良くないことだと思う。人は一人では生きて行けないのだ。頼り方を私も今学んでいる最中である。

それでも立ち向かってばっかりじゃ、さすがの私も疲れるし泣きたくなるのだ。そうやって温かいエールが欲しい。早く会いたいと願ってしまう。ばかみたいに。ばかでいいのかな。